オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

アニソン

 

先日、テレビで「マツコの知らない世界」を見た。

アニメだけでなくアニソンも海外で人気がある、とかいう内容だった(見た方はいますでしょうか)。

 

私が「マツコ」の番組でなるほどなあ、と思ったことがある。

それは、フィリピンでの「ボルテスV」人気だ。

 

これは古いロボットアニメだ。

昔(っていつだよ)はロボットアニメ全盛期?だったのか、ボルテスVもその一つ。

しかし、たくさんあるロボットアニメの中で、なぜよりによってボルテスV

 

ボルテスVは翻訳されて海を渡り、フィリピンでテレビ放映されていたらしい。

私がこの事実を知ったのは相当前だ。

以前の職場にいたころ、フィリピンからの農業研修生が来日することになった。

私が彼らの研修を担当することになった。

 

フィリピン人は多分、日本人にとっては相当接しやすい国民だろう。

私はフィリピンへ行ったことが無いのだが、それでも彼らとの仕事はか~なり楽だった。

英語は分かるし、食事制限も基本的には無いもんね(南部出身者は一部イスラム教徒がいたが)。

 

気遣いが日本人にとても似ているが、国民性は正反対。

歌って踊れる?明るい人たちだった。

 

研修先へ移動するバスの中で、カラオケさながらアメリカポップスを熱唱する研修員たち。(歌好きらしい)

やっぱり英語の分かる国民は違うよねえ~と私は思っていた。

 

ある日。

いつものように研修が終わり、フィリピン人研修員たちとバスでの帰路。

疲れたなあ…と私はバスの背もたれに体を沈めた。

 

仕事で同行している私にとっては、長い一日の終わりだ。

やれやれ、今日も無事に終わったよ。

しかし研修員にとっては、研修が終わったこれからが楽しい?夕食と自由時間なのだ。

日本に滞在できる時間も短いし、楽しまなくっちゃ!って感じだった。(エネルギー余ってんな)

 

また、いつものようにカラオケ大会?さながら、歌を歌って帰るんだな…。

と思った。

すると疲れている私を見て、彼らが口々に言い始めた。

 

「今日は日本の歌を歌ってあげる!」(いや、歌ってくれなくてもいいんだが)

「僕たち、日本の歌を知ってますよ!」

 

日本の歌、と言われて私は想像した。

小学校で習うような文部省唱歌かな?

「むすんでひらいて」とか「さくら、さくら」とか?

あるいは英語圏の人でも知っている坂本九「スキヤキ(上を向いて歩こう)」?

ま、何でもいいけどね。(←もう、疲れてるし)

 

しかし、想像とは違った。

「日本の歌を知っている」とフィリピン人たちが得意になって歌い始めたのは、「ボルテスV」のオープニングテーマ曲だったのだ。

 

「ちきゅうの~夜明けは~、も・う・近い♪」

 

大声で気持ちよく歌うフィリピン人たち。

日本語の発音も完璧。

歌詞も一言一句正確だ。

面食らう私。(なんだこりゃ?)

 

「この曲知ってますか!?」

「ボルテスVですよ~!」

 

フィリピン人研修員たちが、先を争って私に言う。

(多分、日本人が喜んでくれるだろうと思っているんだろう)。

しかし、私は混乱していた。

 

(フィリピン人がなんでボルテスV?)

(これが彼らにとっての「日本の曲」なのか?)

文部省唱歌じゃなくアニソンじゃねえか!!!)

 

「皆さんすごいですねえ…」

よく分からないが、私はほめた。

すると彼らは調子に乗った。

 

「フィリピンでは有名なアニメですよ!」

「もっと日本の歌を歌えます!」

「ザンボットⅢを知ってますか~?」

 

「…」(←絶句)。

 

ザンボットⅢもロボットアニメだ。(私だって日本人だから知ってるぞ)

しかし、なぜアニソンを知ってるのだ、君たち。

 

結局、宿泊所に到着するまでフィリピン人たちは気持ちよ~く「ザンボットⅢ」のテーマ曲を繰り返し歌ってくれた。

日本人の私が歌えない歌を、得意になって歌うフィリピン人たち…。(複雑)

 

(心の声)

日本のアニメって英語に翻訳されて放送されているんじゃないの?

歌詞は英語じゃないのか?

彼らは日本語を知らないのに、歌詞を覚えられるのか?

(いろいろ頭が整理できない)

 

理解不能だったが、「フィリピンと言えばロボットアニメ」という印象は強烈に私の頭に残った。

フィリピンで無銭飲食とかやる羽目になったら(そんなことが起きないことを祈るが)、ロボットアニメのアニソンを歌って許してもらおう、と思っている。

 

で、肝心のボルテスVだ。

マツコの知らない世界」で紹介されていたのは、フィリピンでのデモでボルテスVのテーマ曲をデモ参加者が歌う場面だった。

「歌詞が未来志向だから」と説明されていたが、たぶんそうではないんじゃないだろうか。

 

子供のころからみんなボルテスVを見ていて、テーマ曲を知っている人が多い。

学校へ行っていない子どもだって、誰かの家から流れてくるテーマ曲を覚えているかもしれない。

一致団結するために、みんなが知っている歌を歌って士気を高めているんじゃないだろうか?

 

さらに。

フィリピン国家警察の就任式。

バックグラウンドミュージックは、なんとまた「ボルテスV」。

「警察は正義の味方」ということだかららしい。

 

ここまで来るともはや、「他人のふんどしで…」ってヤツだ。

いろいろツッコミどころ満載である。

 

大人になって見ると、当時のアニソンはレベルが高くて驚く。

子どもの頃、こんなに覚えやすいメロディのアニソンを浴びるように聞かされていた我ら日本人。

これだけキャッチーな曲を毎日聞いていたら、そりゃ覚えるよ。(←少なくても私の頭にはガッツリすり込まれているぞ)

 

しかも、ロボットアニメのアニソンはイントロも印象的だし、サビも盛り上がる。

テレビの前のちびっ子たちがワクワクするような、カッコいい曲が多いのだ。

 

それでも不思議じゃないですか?

なぜ海外のアニメファンが『日本語で』アニソンを歌えるのか?

 

マツコの知らない世界」で指摘されていたのは、「日本語の発音の簡単さ」だ。

他の言語に比べると、日本語は(文字や筆記は難しいが)発音はシンプル。

母音は5つしかないし、複雑な発音が出来なくても発音できる。

だから日本語のアニソンの歌詞を覚えてしまう人が多いのだそうだ。

 

海外では公用語がいくつもある、なんて国の人もいる。

そういう人たちは語学の達人なわけだ。

発音のカンタンな日本語なんてすぐに覚えちゃうのかもね。

 

こうやって、海外のアニメファンは、日本語が理解できなくてもアニソンを覚えてしまうという。

しかも、日本のアニソンは89秒で盛り上がって収まるよう、うまく作り込んでいるのだとか。

曲が短くて分かりやすく、歌詞も簡単。

なら、歌えるようになるまで時間はかからないだろう。

 

YouTubeでは、日本の曲(アニソンに限らず)を歌ってみた!という海外の方も多い。

これは、やはり「マツコ」で指摘されていたように、日本語の発音が簡単だからだろう。

これだけ世界の人が「簡単」だと思うような日本語なら、他国でも公用語にしてほしいものだ。

 

ちょっと脱線させてほしい。

私は常々思うのだが、空港にどうしてカラオケが無いのだろう?

空港って、フライトが遅れたりキャンセルになったりして、余った時間を持て余す人が多い。

空港の片隅に1100円くらいで使えるカラオケボックスがあれば、歌好きのフィリピン人なんか喜ぶだろうに。

 

もちろん、カラオケの曲にはアニソンも含めてほしい。

そしたら次の飛行機を待つ長い時間も苦にならない。

 

いや、熱唱しすぎて逆に乗り過ごしてしまう人も出そうだ。

だから空港にカラオケを置かないのだろうか?

 

カラオケタクシーなんかもあるくらいだから、歌いたい人はいるはず。

ぜひ「乗客の時間つぶし」策に検討していただきたい。

と空港を利用するたびに思っている。

 

ま、これからは英語が上手じゃなくてもアニソンが歌えれば、海外の人と仲良くなれる時代が到来した、ってことなのかもしれない。

羽田空港のカラオケで、アニソンを熱唱するフィリピン人が見られる日も近いんじゃないだろうか。

 

 

七夕

 

七夕だからこういう話題を書くわけではないが、ルルちゃんの妹が結婚するらしい。

ルルちゃんは、私がインドネシアで懇意にしていた友人だ。

 

「へっ?妹って、もうそんな年齢?」

 

私がインドネシアにいたとき、ルルちゃんの妹、リーナちゃんはまだ大学生だった。

あどけない笑顔が印象的だったのに、もう結婚か。

子どもの成長は早い(←ってもう「子ども」じゃないんだけどね)。

 

確かジャカルタで開催されたマンガフェスティバルか何かで、ルルちゃんに「うちの妹だよ」と紹介されたのだ。

(マンガフェスに来ていた、ってことは妹もマンガオタクなんだろう)。

あれから、まだそんなに経っていない。

 

インドネシア人の結婚は早い。

10代で結婚する人もいるくらいだ。

なので、それ自体は驚くことではないんだろうけど。

 

このたび、私が何に驚いたかというと。

「何年か前に大学生だった子が、今年結婚すること」ではない。

 

ルルちゃん曰く。

「妹は結婚したらジャカルタを離れ、夫の実家で義両親と同居」なんだそうだ。

 

それを聞きとがめた私。

「あれ?将来の旦那さんはジャカルタの人じゃないの?」

と聞くと、妹の婚約者はジャワ島東部のある大都市出身なんだという。

 

でも、同じジャワ島なんでしょ?

同じ島なんでしょ?

と思う人もいるだろう。

 

いや、同じジャワ島といえど、その町はジャカルタから900キロ近く離れている。

(まあ、スマトラとかスラウェシとか、違う島に嫁に行くよりは近いのかもしれんが…)。

インドネシアはひたすら巨大な島国なのだ。

 

そんな遠くの人と妹さんはどうやって知り合ったのか。

まあ、大体わかりますよね。

読者の皆さんご推察の通り、SNSを通じて知り合ったのだという。

 

ちょっとビックリした。

ルルちゃんの家庭及びご親戚は、良い家柄だけあってかなり保守的。

SNSで知り合った」

彼氏との結婚をよくぞ許したなあ、ってことである。

 

ところでルルちゃんは既婚者だが、親や親戚に自分の結婚相手を認めさせるのにえらく苦労したそうだ。

 

たとえば、結婚を考えている彼氏を家に連れてくるとする。

当然、親兄弟にも引き合わせる。

彼氏が帰宅した後で、ルルちゃんはそれとなく親の意見を伺う。

 

「あの男の子はまあ、悪くないけどねえ…」

 

なんて親が言おうものなら、それは結婚相手として「不可」ということだ。

ルルちゃんはその彼氏と別れ、別の彼氏を探す。

 

「なんで?親の意見なんて別にいいじゃん。

結婚は自分と相手の合意のみに基づくわけだし」

 

なんて理想的なことを私はルルちゃんに言ってみた。

しかし、彼女は浮かない顔をして首を振る。

 

「結局、結婚したら親兄弟や親戚づきあいがあるでしょ。

だったら最初から、家族が気に入る男性と結婚したほうが面倒が無くていいよ。」

 

自分の人生で家族がそれだけ重要、ってことかい。

分からんでもないけど、なんとなく納得できないけどなあ。

 

「親や親戚が認めてくれそうなムコ候補、となると「友達の知り合い」「友人の友人」が間違いない。

だって、友人の友人なら「出身地、学歴、経歴、民族、宗教等」個人情報もある程度わかるしね。」byルル

 

というのが結婚相手を探す昔ながらの方法なんだとか。

ことほどさように伝統的なインドネシアの結婚は、個人の性格よりも「宗教、出身地、民族」などが重要視されるのである。

 

ってことで、ルルちゃんは「学生時代の友達の知り合い」「友達の遠い親戚」「そのまた知り合い」など、自分の知り合いから範囲を広げて夫候補を探したらしい。

大変なこっちゃ…。

 

親の意見がそれほど大事か?誰だっていいじゃねえか!

と思う私は、ルルちゃんの歴代の彼氏に同情する。

しかし、「第三者(親)から見た人物評が一番信頼できる」というのも、ある程度は真実だ。

 

恋に落ちている時は、相手の欠点が見えないからねえ。

間違いない結婚相手、ってどの国でも見つけるのが大変なんだよね。

 

ルルちゃんの一族郎党&おば様方の要求は、「ムコになる男はイスラム教徒であること、ジャワ島出身であること」等多岐にわたった。

それらの条件をすべて満たしたのが、今のルルちゃんの旦那様である。

 

まあ、ルルちゃんの旦那は私が見ても「よく出来た旦那さんだ」と思う。

さすが厳しい面接を乗り越えて入社…いや、結婚を許可されただけのことはある。

 

しかし、ルルちゃんの結婚の経緯を聞いて、私もどっと疲れた。

「は~インドネシアの結婚って大変なんだわさ」

 

伝統的な価値観を重視する国なら、まだそういう感じなんだろうな。

結婚相手選択には親や親戚の意見が優先される。

だから「知り合いの知り合い」に紹介された知り合い、ってのが安全パイなわけだ。

 

こうやって、ルルちゃんから

「いかに親が気に入る結婚相手を見つけるかが大変だ」

という苦労話を聞いていた。

だから、妹のリーナちゃんが「SNSで知り合った」人と結婚を決めた、と聞いて驚いたのだ。

 

「彼に会ったけど、いい人だったよ!」

とルルちゃんは言う。

しかし、伝統的な「知り合いの知り合いからの紹介」という方法で妹が結婚相手を見つけたわけではない、のがちょっと彼女のお気に召さないらしい。

 

姉妹なのに、結婚相手の選択方法が違うわけだ。

30代の姉は「伝統的な方法」で、親や親戚一同の気に入る相手を苦労して見つけた。

しかし20代の妹はSNSでサクッと(?)彼氏を見つけた。

 

姉妹なのにねえ。

ルルちゃんが結婚した時から何十年も経っていないのに、である。

今どきの若者は…というルルちゃんの嘆きが聞こえそうである。

 

インドネシア社会の変化って早いなあ…。

それが私の第一印象。

日本なら「世代が変わったら、結婚観も変わる」くらいなのかもしれないけど。

案外、インドネシアの方が日本のような古い国より、社会の動きが速いのかもね。

 

以前、フランス人の友人に尋ねられたので、日本社会の現状をあれこれ実体験を交えて話をした。

私の話(主にジェンダーロール等の話題だったが)を聞いた彼女が言っていた。

 

「日本女性が今、日本社会で味わっている女性差別って、フランスでは私の母親世代が味わったことだよ。

フランスは日本より、ひと世代先に社会が進んでいるのかもね。」

 

うん、そうかもね。

社会って、祖母→母→娘、と世代ごとに変化していくものだよね。

その時は、「そうか、私の子ども世代になったら、今のフランスに追いつくくらいなんだな」

と思った記憶がある。

 

しかし昨今は、社会の変化の速さがますますスピードアップしているようだ。

ルルちゃんが30代にして「今の20代は」と嘆くくらいなんだから、もはや一世代どころではない。

 

こうなると、リーナちゃんの結婚式及びその後が楽しみである。

さすがに結婚式は、伝統的なヤツだろう。

日本でも昔の人がやっていたが、何百万もかけてホテルを借り切り、派手な披露宴をぶち上げるのがインドネシア流だ。

これは、さすがにお母さんも親戚一同も譲れないだろう。

 

私も「今の若い者は」とか「ついて行けない」と嘆くのではなく、「そっか、今はそんな感じなんだ」と思うようにしている。

自分の周囲を見てもそうだ。

彼氏や彼女、妻や夫をアプリとかSNSで見つけた、という人が多くなってきた。

 

それだけ、「友人の友人の知り合い」で適切な彼氏・彼女候補を見つけるのが難しくなったということかもね。

「人に紹介されると後が面倒くさい」ってのもあるしなあ。

私なんか電話に出るのもおっくうになってきたし(←それはちょっと違う?)。

 

まあ、伝統的な結婚にせよ、現代的にせよ、リーナちゃんが幸せになってくれれば一番いいんだけどね。

こうやって、インドネシアの伝統もどんどん変わっていくんだろうな。

 

今日は七夕。

世界中のすべての愛する二人が、幸せでありますように。

 

 

プードルの身代金

 

作家のパトリシア・ハイスミスをご存じだろうか。

米国女流推理作家のパトリシア・コーンウェルと間違えそうだが、コーンウェル氏の方は存命だ。

 

パトリシア・ハイスミスの『サスペンス小説の書き方』という本が面白かった」

と何かの書評で読んだので、自宅もよりの図書館へ借りに行った。

 

しかし。

無い。

 

パトリシア・ハイスミスの小説は、図書館に一冊しかなかった。

しかも、読みたかった本(「サスペンス小説の―」)ではない。

ウィキペディアによれば、彼女の作品は欧州ではヒットしたが、日本に紹介されるのは遅かったらしい。

だから田舎の図書館には蔵書が無いのかな。

 

仕方なく、たった一冊だけ図書館にあったハイスミスの小説(文庫本)を借りた。

それが「プードルの身代金」(扶桑社ミステリー)だった。

 

皆さん、ハイスミスの作品を読んだこと、ありますでしょうか?

日本への紹介も遅く、すでに物故されている作家さん。

ほとんどの読者の方は読んでいないんじゃないかと思う。

なので、ネタバレ承知で感想を書きます。

 

あらすじ。

 

NYに住むある夫婦が、飼い犬に身代金を要求された。

(飼い犬のプードルは、行方不明になった直後に殺されるのだが)。

犯人は頭のおかしい中年男性、ロワジンスキー。

身代金を2回せしめることにまんまと成功する。(←身代金を取れる時点で頭はおかしくないけどね)

 

と、そこまでは普通のミステリ小説。

犯人も、小説の比較的初めの方であっさりと登場する。

この本は、「犯人は誰か」を突き止める小説ではないのだ。

 

主人公は、クラレンスという若い警察官。

プードルの飼い主は、温厚で裕福なレイノルズ夫妻。

警察の仕事を嫌っているクラレンスの彼女、マリリンも登場する。

 

クラレンスは、プードルを誘拐した犯人を逮捕し、レイノルズ夫妻を喜ばせようとする。

同時に彼はマリリンと結婚したいと願っている。

しかし、彼らに依存しようとすればするほど、クラレンスと彼らとの人間関係は悪くなっていく。

 

クラレンスを苦しめるため、マリリンにつきまとう犯人、ロワジンスキー。

マリリンを監視する警察の同僚マンゾーニ。

彼らの底意地の悪さも、クラレンスを狂わせていく。

 

追い詰められたクラレンスは、ついにロワジンスキーを殺害してしまう。

マリリンとレイノルズ夫妻はクラレンスをかばってくれるのだが、彼に対し嫌悪感も抱くようになる(かわいそうだが、人間の心理としては理解できるな)。

 

警察署の上司の取り調べに対し、クラレンスは「自分はロワジンスキーを殺していない」と否認する。

しかし、クラレンスに悪意を抱くマンゾーニがアパートにやってくる。

 

う~、どうしてこういう方向へ行っちゃうの?

と、小説を読みながらやきもきする。

クラレンスは一生懸命やっているのだが、なぜか状況は悪い方へ悪い方へ…。

 

後で調べたら、「後味の悪いミステリと言えばハイスミス」なんだそう。

日本にもありますよね、イヤ~な感じのミステリ、つまりイヤミスというジャンルが(私は読んだことがなかったが)。

 

クラレンスのアパートの部屋に勝手に入ってくるマンゾーニ。

当然、二人は言い争いになる。

 

マンゾーニは、クラレンスが警察官の仕事をバカにしていると感じている。

クラレンスは(同僚には言わないが)、マリリンと結婚するために警官をやめようと思っている。

 

マンゾーニにとっては虫が好かないクラレンスの若造が、どうやら殺人を犯しそれを隠匿しようとしているわけだ。

そりゃあねえ。

言い争いにならないわけがないでしょ。

 

マンゾーニの銃が火を噴き、クラレンスは腹部に痛みを感じる。(いいのか無抵抗な人を銃で撃って…)

そして…ゆっくりと床へ倒れる。

マンゾーニは、素早くクラレンスのアパートを後にする。

 

っていう結末!

なんてこったい!!

誰も幸せじゃないじゃん!

 

プードルは殺され、身代金は取られ(後で大部分が返却されるけど)。

主人公は彼女にふられ、犯人が殺され。

仲良くしたいと願っていたレイノルズ夫妻の態度も冷たくなり。

 

そして、主人公が殺されて小説が終わる。

犯人である同僚が現場から逃走…ハイ、終了。

 

ってそのあと、どうなるんだ?

マンゾーニのヤツ、「抵抗されたので撃った」とかウソをつくだろうことはミエミエだ。

(小説には書いてないけど)。

 

というわけで、「プードルの身代金」は、不合理と不条理に終わります。

ね、イヤな終わり方でしょ?

 

この作品はミステリとか推理小説というより、ミステリの皮をかぶった純文学?って感じがする。

クラレンスがかわいそうすぎるが、心理描写がいちいち秀逸だ。

 

たとえば。

警官が役立たずのせいで、リザ(”誘拐された“プードル)が帰ってこず、身代金を2回も取られてしまう。

そんなことがあったら、いくら温厚な人でも腹が立ちますよね。

警官であるクラレンスを前にして、

「(リザも犯人も見つからないなら)警察に通報するしかない」

なんて言っちゃうレイノルズ氏(つまり、クラレンス=無能、と暗に示しているわけです)。

 

レイノルズ夫妻がリザの後釜として別の犬を飼い始めた場面も、警官であるクラレンスの立場無しだ。

なのに、「新しい犬ジュリエット」を飼い始めたレイノルズ夫妻宅に平気で遊びに行っちゃう鈍感男・クラレンス。

そんなとこも、レイノルズ氏に疎まれる原因なんだが。

 

でもなあ。

人間関係って、合理的なものは一つもない。

むしろ、日々不合理と不条理に支配されている。

そう考えると、ハイスミスは現実を文章で描いて見せる達人かもしれん。

 

例えばだが。

レイノルズ氏はオフィスで働き、インテリである。

妻のグレタはドイツ訛りの移民で気持ちが優しく、音楽家である。

 

高学歴で裕福な夫妻と、ロワジンスキーのように職場の事故で体が不自由になり、世間に恨みをつのらせて生きている人間。

夫妻に非はないが、「幸せそう」に見える人に悪意を持つ人もいる。

しかし、レイノルズ夫妻だって順風満帆な人生というわけではない。

 

レイノルズ氏は、「若気の至り」で結婚した相手との間に娘が一人いた。

娘はドラッグをやり、バーでのトラブルに巻き込まれて亡くなった。

そのあと、夫妻は可愛がっていたプードルを頭のおかしい男に殺され、身代金を奪われる。

 

夫妻は嫌な思い出のあるアパートを引き払い、別のマンションへ転居し、新しく犬を飼う。

犬の身代金も、引っ越し代も(もちろん払わなくていいならそれに越したことはないが)、都会で生活するコストの一種だと理解している。

こうやって人間は前を向き、人生は続いていくんですけどね。。

 

裕福な夫婦が100%幸せかというと、そうでもない。

何不自由なく生活している夫婦にも、不幸(娘の死、愛犬の死)は訪れる。

 

こんな場面もある。

クラレンスのように組織に所属する人間と、マリリンのように自由な心を持つフリーワーカー。

マリリンがクラレンスを捨て、友人男性(オカマさん)を選ぶのも面白い。

「安定とお金」ではなく、「自由と自分らしさ」を優先する人もいるのだ。

 

ところで、ハイスミスの数あるヒット作の中で映画化された小説がある。

それは、「太陽がいっぱい」。

 

イタリア・フランス映画なのだが、主演はアラン・ドロン

私はこの映画を見たことがないのだが、あらすじを読むとまさに不条理…。

これがハイスミスの真骨頂なわけだな。

 

は~それにしても思う。

自分は本を読むのは得意だが、ハイスミスのような描写力は無いなあ、ってことだ。

小説家になるのは不可能だと思うが、もう少し文章力を身に着けたいと思っているところだ。

 

もし、次なるハイスミス作品を読むなら、やはり「サスペンス小説の書き方」を読んでみたい。

しかし、図書館には無いのよ、ハイスミス作品が!

じゃあ、パトリシアつながりで「パトリシア・コーンウェル」作品を読もうかな?(←もう、適当)

 

一つ気になる点を挙げる。

どうしてこの小説のタイトルが「プードルの身代金」なんだろう?ってことだ。

もちろん、それが悲劇の発端なんですけど。

 

この、一種冷酷にも感じられる心理描写を得意とするハイスミス

イヤミスって、読者が読みながら「それはないでしょう!」「どうすんだお前」みたいなツッコミをし続け、先が気になる展開なわけですね。

文学とミステリを同時進行で小説に仕立てるハイスミスは、やはりすごいんだな。

 

人間観察が趣味って人がたまにいるが、そういう人こそ小説家に向いているのかも。

やはり読んでみたい、「サスペンス小説の書き方」。

 

 

 

国ガチャ

 

先日、本棚を整理した。

 

油断しているとすぐに本が増えてしまう。

なるべく図書館を利用して新しい本を買わないようにしている。

しかし、どうもうまく行かない。

 

書店で本を見ていると立ち読みしてしまうし、読むと欲しくなる。

気づいたらレジに並んでいる。

 

私は、誕生日に図書カードをもらうことが多い。

図書カードを財布にしのばせて書店へ行ったら、もう最後だ。

手ぶらで帰宅することはない。

こんな感じで着実に本が増えている。

 

先日は私の誕生日だった。

誕生日プレゼントとして、また図書カードをもらった。

すると、翌週には本棚にちゃんと新しい本が増えていた。

 

どうやらフラフラと書店へ行き、意識がもうろうとしたまま、新しく本を何冊も購入したらしい。

書店へ足を踏み入れたとたん、記憶喪失に陥るようだ。

 

以前、書店へ行ったら、やはり立ち読みしているうちに欲しくなった本があった。

もう、前後不覚になっているのでレジにフラフラと進む。

レジには普段は4,5人の店員がいるのに、その時は2人しかいなかった。

当然、お客さんの行列になる。

私はその行列の最後尾についた。

 

なかなか列が進まないが、欲しい本を手にしているので幸せな気分だ。

並んでいる間、カバンから財布を取り出して開けた。

思わず目を疑った。

 

財布に13円しか入っていない!!

 

(お金を入れてこなかったのか?)(汗)

ヤバいヤバいヤバい…と思いながら、慌ててレジ前の列から脱出しようとした。

 

(ん?)

 

財布の中で、運転免許証とかカード類が入っているところに目が止まった。

これはもしや?

引き抜くと図書カードだった!

よっしゃ!(←生き返る)

 

こんなことを年中繰り返している。

 

本が増殖するので、定期的に本棚を整理している。

先日は、かなり前に買った本や文庫本、旅行本などを整理した。

そして、それらの本を部屋の隅に積んでおいた。

 

不要な本がたくさんあるときは、古書店を呼んで持って行ってもらう。

でも、今回は量が少ない。

不要な本がもっと増えるまでは、とりあえず部屋の隅っこに置いておけばいいや。

(ためこんじゃいけないとは思うが、量が少ないと自分で店舗へ持参しなきゃいけないですしね)。

 

ある日。

DMが私宛に来ていた。

国際協力系のNPOからだった。

 

以前、古切手を大量にため込んで寄付したことがある。

それで、何かのご案内がそのNPOから送られてきたようだった。

 

「お金を寄付したいのはやまやまだけどさあ~。私だってお金ないんだよ」

 

私はいつものように自分の住所と名前を消して、そのDMをゴミ箱へ捨てようとした。

ふと、そこに書かれていた文字に目が吸い寄せられた。

 

「本、CD、ゲームソフトでワクチンを送ろうキャンペーン」

 

む?

 

私はそのチラシをよく読んだ。

そこにはこんなことが書いてあった。

 

「ご自宅、会社や学校に眠っている不用品が子どもたちの笑顔に!」

 

読み進めて分かった。

古本や視聴しなくなったCDをこのNPOへ送ると、ブックオフが買い取ってくれるのだという。

そしてその買取金額+10%がこの団体へ寄付されるらしい。

この10%は、なんとブックオフからの協力金のようだ。

(やるのう、ブックオフ…)。

 

さらにこのキャンペーン期間中、この団体の専用サイトから申し込むと、古本やCDを自宅からこのNPOへ送る料金が無料になるんだとか。

それはありがたい。

私から送る古本の送料が無料になり、さらに寄付金額に10%、ブックオフが上乗せしてくれるわけだ。

 

私はそのチラシの裏を読んだ。

なんでも、古本10冊で約200円になるらしい。

200円あれば、ポリオワクチン10人分になるという。

 

「古本10冊ねえ…」

 

ちょうど、本棚を整理したばかりだ。

不要になった古本もある。

タイミングよいこと、この上ない。

 

でも、不要な本は10冊もないのよね。

ごめんね、今回は縁がないや。

私はニヤニヤしながら、チラシを捨てた。

 

念のため、部屋の片隅に山積みになっていた本を数えた。

なんと、11冊あった。

 

私はもう一度数えた。

やっぱり11冊だ。

うーむ。

出来過ぎている。

 

どうもタイミングよく、神様がこのチラシを送ってきてくれたらしい(いや、送ったのはNPOだが…)。

私は感心して本を二度見した。

 

ポリオワクチンは、経口ワクチンである。

投与は簡単で、口の中にポイっと入れれば終了だ。

看護師や医者でなくても投与できるし、子どもの頃にポリオワクチンを投与しておけば、一生ポリオにならなくて済む。

 

医療従事者が接種しなければならない他のワクチンと違い、比較的投与しやすいワクチンと言える。

十分な医療従事者がいない途上国でも、ワクチンさえあれば予防できるのだ、ポリオって。

 

だから、国連や国際機関は必死に「ポリオ撲滅キャンペーン」を実施しているのだ。

しかし、ポリオはいまだに絶滅していない。

 

一時、ポリオは絶滅しかかった。

「ポリオが残っているのは、もうアフガニスタンパキスタンしかない」

とか言われていたこともあったが、残念ながら盛り返したようだ。

 

私はこの団体のHPにアクセスしてみた。

どうやら、ラオスとかミャンマーでもポリオワクチンを投与する活動をしているらしい。

ってことは、「アフガニスタンパキスタン」だけではなく、アジアの貧しい国で再びポリオが見られるようになったわけだ。

 

でもさ、考えてもみたら当然かも。

アジアの国は陸続きなんだから、人間の移動があれば病気だって移動するでしょ。

コロナだってそうやって拡大したんだからさ。

 

私はNPOへ送るために、本を入れる箱を探し始めた。

ちょうどいい箱がなかったら、残念だけど送付出来ないんだよねえ~。

 

あ、あるじゃん。

ふだんは箱なんて家に見当たらないのだが、その時はたまたまちょうどいい箱があった!

 

これは、友人が私の誕生日祝いにお菓子を送ってきてくれた時、お菓子が入っていた段ボール箱だ。

小さい段ボール箱は使いやすいので、取っておいたのだ。

本が入りそうな小さい箱が我が家にあること自体、一年に一度しか発生しない。

 

しかも。

不要な本11冊を入れて見たら、ちょうどぴったりその箱に入った!

すごすぎる。

 

古本を送ろうキャンペーンで送料無料。

古本もちょうど11冊ある。

それがぴったり入る箱も、タイミングよく家にあるのだ。

 

もう、神。(キラキラ)

アジアの子どもへワクチン供与をするべく、私はひたすら背中を押されているとしか思えん。

 

こうなったら、11冊の古本を「送料無料」で寄付するでしょ、誰だって。

200円で10人の子どもが助かるなら、私の古本だって本冥利に尽きるだろう(ホントか?)。

 

本を箱に詰め直しながら気づいた。

よく考えてみると私は好き放題、本を買っている。

コロナワクチンだって、日本政府から無料で接種してもらった。

 

こう考えると、世の中の不条理を感じる。

生きていてもそんなに役に立たない?私がワクチンを無料で接種することができ、未来ある子どもが接種してもらえないとは。

これが「国ガチャ」ってやつですかね。

 

まあ、四の五の文句を言わず、さっさとワクチンキャンペーンにエントリーして本を梱包することだ。

考えるより行動しなくては。

考えたり悩んだりするのは、そのあとでいい。

 

毎月、一つは社会に何か役立つことをやろう!

と思っているのだが、なかなかそうもうまく行かない。

高額なお金を寄付することは難しいし、出来たとしても長続きしない。

なので、結局「不要な古切手を集めて送る」とか、「不用品を寄付する」とか、ささやかなことになってしまうのだ。

 

もちろん、「どうせ自己満足でしょ」という批判はあるだろう。

でも、それでいいと思っている。

 

送料無料で古本が処分出来て。

それで誰かの命が助かる?

部屋もスッキリする?

上等でしょ。

 

早く送付しなければ…と梱包を終えて気づいた。

偉そうなことを書いたが、よく考えるとなんか違う。

 

だって、送る本だって誰かからのプレゼントの図書カードで買った本だし、箱も友達からのプレゼントが入っていた箱だ。

送料だって、NPO持ちじゃねえか!

 

するってえと(←なぜかべらんめえ調)、私個人が自腹を切って出した費用は?

…ゼロだ。

 

もう、笑うしかない。

誰かの幸せのために、右から左へとリソースを移動させるだけの要員なんだ、自分。

と思えば、悪くない。

無償で労働力を提供しただけだが、それでさわやかな「自己満足」がいただけるなら、もう言うことないや。

ホント、10人の子どもたちよ、幸せになってくれよ。

 

スペイン語検定

 

またもやスペイン語検定を受験した。

 

(あんたも好きねえ…)と思った方もいらっしゃるだろう。

前回が不合格だったので、再挑戦したのだ。

 

昨日。

西検会場がある神田まで行ってきた。

普通の日ならどうってことないのだが、昨日は猛暑。

朝、家を出たときにはすでに30度。

日焼け止め、日傘、ノースリーブでも暑い。

まだ6月なんだが。

 

前回は、マークシートに加え、記述試験もあった。

文章を西語訳するのだが、それって採点が大変だったでしょうねえ。

 

今回は記述式が無くなり、全部マークシート方式になった。

ルールが変わったのだとHPに書いてあった。

まあ、その方が採点も楽だし、受験生が手をふれた解答用紙に触らなくてもいいしね。

それにしても、よくルールが変わるなあ。

 

で、今回。

試験開始時間の合図とともに問題を見て、「う~」と思った。

やはり今回も難しい。

 

以前の記事にも書いたが、西検は下の方の級ならともかく、2級以上になると過去問や参考書がほとんどない。

英語なら初級から上級まで、たくさんの検定対策やら過去問がありますけどね。

試験対策のしようがないので、自信が無い動詞の活用とか語彙力アップとか、自分なりに試験準備をしてきた(つもり)。

それでも分からないのだから、これはもう自己流の勉強法じゃダメだってことですね。

 

ところで。

私の耳が遠いのか、広い会場の後ろの方に座っているからなのか、試験監督者の言っていることが聞き取りにくかった。

監督者が何か言うたびに、身を乗り出して聞く。

それでも聞き取れないことが二、三あったが、ま、いいやと思ってあきらめる。

 

試験時間の後半にリスニングがあった。

 

リスニング試験時間が始まった。

まずは、日本語でリスニング試験の指示があった。

録音されている音源が会場内に流れた。

 

「この音量で大丈夫ですか?」

といったん音源を止め、試験監督者が我々受験者に聞いた。

 

録音された音源(日本語)は聞きづらいが、大体何を言っているかはわかる。

ちょっとぼそぼそ話しているような感じだが、これは録音したアナウンサーの声質の問題だろう。

皆、私と同じように思っているのか、誰も「聞こえません」と手を挙げる人はいなかった。

 

特に誰も「聞こえない」という人がいなかったので、そのままリスニング試験が続行された。

リスニングでは、問題を3回聞くことが出来る。

まず1回目。

スペイン語で問題が音読された。

 

(なんだかぼそぼそしていて聞き取りにくいなあ)と再び思った。

しかし、それはスペイン人アナウンサー?の滑舌のせいかもしれん。

(しかし、日本人アナウンサーもスペイン人アナウンサーも、よりによって聞きづらい声質の持ち主なのかな?)

 

聞き取れた範囲で正誤の〇×をメモっておく。

あと2回聞けるしね。

 

すると、

「音が小さい」

と申し出る受験生がいた。

 

試験監督者が驚いて尋ねる。

「音が小さいでしょうか?」

すると、「聞こえないですねえ」と別の方からも声が上がった。

 

試験監督者は慌てた(私もちょっと驚いた)。

結局、ヒアリングをやり直すことになり、試験も10分間延長となった。

 

「皆様の貴重なお時間を頂戴し申し訳ございません」

 

試験監督者は謝っていたが、いやいや…。

スペイン語どころか、日本語の試験指示もよく聞こえない私にとってはつっこみどころ満載である。

 

で、ヒアリングやり直しで新たに3回聞くことになった。

しかし、3回聞いても細かいところは何を言ってるのか分からなかった!(笑)。

 

なーんだ。

私にとっては、音量の問題ではなかった。

単にスペイン語聞き取り能力の低さの問題だったのだ(やっぱりねえ…)。

じゃあどうして日本語の指示もよく聞こえないんだ。

日本語能力、いや聴力自体が落ちているんだろうか。(←もはやお年寄り)

 

ヒアリングは筆記問題と違って、録音した音声が終了したら終わりである。

読み返して考え直す、なんてことが出来ない。

なので、分からないものはいくら考えても分からない。

結局これが限界なんだろう。

 

試験を終え、会場を後にJR神田駅へ戻る。

今まで私は神田駅で降りたことがなかった。

本好きの人は「神田」というと古書店街を思い出すんでしょうけど、私は初めて神田を歩いてビックリした。

駅の周辺はずらりと飲み屋ばっかりですね!

 

「神田」というと“江戸の町”的なイメージがあったのだが(「神田◎◎町」とつく地名がありますよね)、まさか、こんな飲み屋街とはねえ。

誰をターゲットにしているんだろう。

おかまのお店なんてのもあった。(←気になる)

 

駅の近くに「神田の町の歴史」なる看板が立っていたので読んでみる。

すると、やっぱり江戸時代は鍛冶屋さんとか手工業の店が軒を連ねていたらしい。

粋な江戸っ子が今の神田を見たら腰を抜かすだろう。

東京はこの点、NYとちょっと似ていて、街によって顔が全然違う。

 

駅に戻りがてら昼食をどこかで取り、その足で帰宅しようと思った。

なので、立ち並ぶ店を一つ一つ見て、

 

「あ、閉まってる」

「なんだか高そうだ」

 

てな感じでチェックしていった。

近くに神田外国語大学があるので、飲み屋さんのターゲットは大学生かなあ。

現代の大学生が行くのは書店じゃないわけだ(笑)。

 

それにしても。

北海道以外の人は合意してくれると思うが、昨日は蒸発してしまいそうなくらい暑かったんですよ!

朝、試験会場へ行く時なんてねえ!

太陽が容赦なく照り付ける道路に、ふらふら歩いている人なんてほとんどいない。(西検受験者だけだ)

 

しかし、本当に暑すぎた。

こんな日に出歩くなんて自殺行為だ。

昨夜のニュースでは、熱中症で搬送された人は14歳から97歳までだったとか。

熱中症に年齢は関係ない。

 

というわけで、初めて上陸した?神田。

ランチする適当な店を見つけられず(ファーストフードも見つからん)、ぐるぐる歩き回って(←一番やっちゃいけないヤツ)、結局チェーン店へ。

もう、頭も疲れているし足も疲れている。

適当に「あんかけカタ焼きそば」を頼む。

 

長らく待たされ、やっと出てきた「あんかけカタ焼きそば」。

ほぐしてない麺の上に、ぬるい?あんをかけただけ。

麺だって袋から麺を取り出して皿に置いた、って体だ。

ひと手間かけて、麺をちょっとくらいほぐしたらどうだ?と思わんでもない(←暑くて厨房の人も面倒なんだろうな)

麺にご注目ください

 

(↑昨日の私の昼ごはんです)

 

しかし、いいのか悪いのか、私はたいてい「何でもおいしく食べられる」タイプ。

店員さんも日本語が怪しいし、足も腰も痛いし汗は流れるし、西検が終わった安堵感で頭は真っ白。

もう、どうでもいい。

麺を自分でほぐしながら食べた。

 

それにしても、この暑さは異常。

皆さんも、昼食のためとはいえ、知らない町で炎天下の中を長時間ウロウロしてはいけません。

リベンジでおいしい町中華を食べたいが、この暑さは一週間続くんですって。

まだ6月じゃん…。

 

 

ブログ記事執筆をサボりまくっていて、お恥ずかしい限りだ。

 

日々、記事を書いては消し、書いては「保留」ファイルに入れている。

なので、記事をまったく書いていないわけではない(という言い訳)。

書いた後に読み返しても、今一つピンとこないのでお蔵入りになっているのだ。

 

そんなことをやっていたら、永遠にブログへアップできないのは分かっている。

だから、頑張って一つ仕上げることにする。

 

ところで、来週から急に暑くなるみたいですね。

梅雨はもう終わるのでしょうか?

 

6月は衣替えの季節だ。

私は暑がりで、5月から半袖を着て出勤する。

 

「今からそんなじゃ、暑い夏はどうするんですか?」

 

なんて同僚によく聞かれる。

決まってるじゃないですか、暑い夏はノースリーブですよ!

 

インドネシア赴任前に、(太って)着られなくなった服をスッキリ大量処分した。

そしてインドネシアでは大量に夏服を購入(一年中夏服を販売しているもんで…)。

汗っかきなので、じゃぶじゃぶ洗濯出来る服がたくさんあると助かるのだ。

 

なので冬服はあまり持っていないが、夏服はまあまあ持っている。

また増えちゃったよ、服が…。

 

服って「何枚あれば十分生活できるのだろうか。」

私は最近、図書館で「フランス人は服を10着しか持たない」とかいう本(シリーズになっている)を立ち読みして、ふと考えた。

 

その本によれば、「これさえあれば十分生活できる」夏服のラインナップはこうだ。

 

・ブラウス3枚

・白デニム1本

・ライトデニム1本

・サマードレス4枚

・スカートまたはパンツ1枚

 

これに、Tシャツ、タンクトップ、薄手セーター、カーディガン、ジャケットなどが何枚かあれば着まわせるのだという。

サンダルやバッグ等は除いて、の話だけどね。

(立ち読みだけじゃなく、ちゃんとメモったのだ)

 

恐ろしく少ないですね。

ホンマにフランス人はこれだけで生活してるのだろうか…。

 

このリストと比べると、私は夏服を持ち過ぎている。

反省。

しかし、私は「フランス人」よりももっとすごい人に会ったことがある。

 

就職したばかりの時。

Aさんという先輩社員が、私の教育係となった。

 

Aさんはアイドル並みの可愛らしい顔立ちをしていた。

しかし、すごい人だった。

何がすごいって、服を2枚しか持っていなかったのである。

 

誤解を招かないように詳しく説明する。

 

Aさんは赤いスカートを1枚持っていた。

そのスカートに合わせるトップスとして、Tシャツ2枚(しかもなぜかレモンイエローとショッキングブルー)を持っていた。

 

そして、そのTシャツ2枚を日替わりで着ていた。

つまり、おとといはレモンイエローのTシャツ、昨日はショッキングブルーのTシャツ。

そして今日はまたレモンイエローのTシャツ、というわけだ。

どうでもいいが、Aさんと会うと毎日目がチカチカした。

 

読者の方のツッコミは分かる。

厳密に言うと2枚ではなく、スカート1枚、Tシャツ2枚の合計3枚ですね。

いや、ポイントはそこじゃない。

 

私がAさんの元で仕事を覚え始めた際、先輩社員たちがいつもAさんをからかっていた。

 

「Aさん、服くらい買いなよ~」

「なんで2枚しか持っていないの?」

 

(え?やっぱり2枚しか持っていないの?)

驚く私に、先輩社員たちが言った。

 

「ねえ聞いて聞いて。この人、Tシャツ2枚しか持ってないんだよ~すごいよね!」

 

やっぱりそうなのか。

Aさんも笑うが、「ファッションに興味が無い」のだという。

すごい…。

 

だって、月~金までシャツが日替わりで「黄色→青→黄色→青→黄色」ですよ。(スカートは赤一択だ、信号機か?)

いくら「オフィスカジュアル」と言えど、Aさんがそれ以外の服を着て出社したのを見たことが無い。

 

Aさんは新婚ほやほやで旦那様と共働きだった。

それを知ってますます謎が深まった。

 

なぜだ。

ダブルインカムなのに、なぜ「Tシャツ2枚」なんだ?

(それに、2枚の服で一体今までの人生、どうやって生活してきたんだ…)

 

Aさんの旦那さんにも会った。

旦那さんも、「妻は服を2枚しか持っていないので、結婚してビックリした」と言っていた。

「服2枚」はネタじゃなく、本当だったのだ。

 

「服を買いなよ、って言っても買わないから、僕から服をプレゼントしたこともあるんですよ」

 

旦那さんは弁解がましく言っていた。

しかし、Aさんが「プレゼントされた」服を着てくることは無かった。

(しかしプレゼントされた服があるなら、服を3枚以上は持っているということになる)

 

買ってもらった服がお気に召さなかったのかというと、そうではない。

Aさんいわく、「服に時間をかけたくない」「服に興味が無い」ということだった。

その後Aさんは転職したが、最後の出社日も「赤スカート、ショッキングブルーのTシャツ」だった。

 

Aさんの言うことも分かる。

服をたくさん持っていると、選ぶのに困りますよね。

環境云々というより、「面倒くさい」ってことなんでしょうね。

 

別の同僚は、「会社用の服は黒一択」にしていた。

理由は、「朝起きて、コーデを考えるのが面倒だから」なのだという。

米国某社のCEOがそれをやる前にやっていたのだから、人類皆似たようなことを考えるんだな。

 

そして月日は流れ去り。

私にも部下が出来た。

そのうちの一人、Bさんがツワモノだった。(また女子だが…)。

 

Bさんは、「私はパンツ2枚しか持ってないんですよ」が自慢だった。

(それを自慢されてもねえ)。

 

Bさん方式は、もしかすると実践している人も多いのではないだろうか。

2枚しか持っていないので、雨が降るとパンツは乾かないまま部屋干しになっている。

そこで、室内に干していた生乾きのパンツをまたはいてくるのだという。

 

パリッと乾いていないのが、ちょっと嫌ですよね…。

 

3枚目を買えばいいのに、と私も言ってみた。

しかしBさんは、「パンツなんて2枚で用事が足ります」と言っていた。

 

ま、言いたいことは分かる。

シャツとかスカートに比べれば、パンツまで見る人は少ないでしょうけどね。

いやしかし、パンツ1枚なんてそんな高額なものじゃないでしょうに。

 

そんなわけで、「フランス人」ほど服を少なくする自信はないが、少ない服で実際に生活している人を見たことはある。

なので、私だって頑張れば、そのうちもっと減らすことが出来るだろうと思っている。

 

環境省が「グリーンライフポイント」なるものをスタートするという。

これは、「衣食住及び循環・移動の5分野で環境にやさしい行動をした人にポイントをあげる」というものだそうだ。

 

フードロスについては、私は努力している。

スーパーでは商品棚の手前から取っているし、賞味期限が迫っていて値下がりしている商品は必ずチェックする。

すぐ使う食品なら、賞味期限が迫っている物で十分だ。

大体、海外の店と違い、日本なんて腐ったものを販売していないんだから大丈夫に決まっている。

 

しかしなあ。

なんか違う気がする。

 

本来は、無駄削減なんてポイントがもらえなくてもやるべきだ。

ポイントをあげるというニンジンをぶら下げないと、我々日本人は地球にやさしい生活が出来ないのかな、というがっかり感は否めない。

 

食品以外は、あまり努力していません(スミマセン)。

前述の通り、汗っかきなので夏服は沢山持っている。

 

北欧の人たちは、そんなにじゃんじゃん服を買わない、と聞いた。

税金が高いので、新しい服をバカスカ買う余裕がないからなのだそうだ。

ファッション大国と思われがちなフランスでさえ、「フランス人は~」なんて本を読むと、そんなにたくさん服を持っている人ばかりではないらしいじゃないの。

ふーん、日本人だけが流行に敏感で、シーズンごとに服を買ってるんですかね?

 

「北欧は税金が高いので服を買わない」というが、「かわいそう」な感じではない。

食品は、毎日食べるようなものは税率が低くなっているらしいし。

教育と医療が無償というのはよく聞く。

おまけに年を取って働けなくなったら、政府が老人ホームをあっせんしてくれるらしいし。

 

食と住がどうにかなるなら、服なぞそんなにたくさん持っていなくても問題ない。

Tシャツ2枚、パンツ2枚で生活できるなら(そして本人が気にしないなら)、それでいいのかも。

「フランス人は~」の本だって、「夏服」は「ブラウス3枚、スカートまたはパンツ1枚」じゃないか。(まあ、スカートだけじゃなくワンピとかもあるけどさ)。

 

一体どうやったら地球にやさしい生活になるのやら。

異常気象とか豪雨災害を見ると何とかしなきゃと思うんだが、パンツ2枚で済ませられるほど吹っ切れない自分もいる。

 

 

 

頑張り過ぎずに、気楽に

 

先日、本を買った。

「頑張り過ぎずに、気楽に。」(キム・スヒョン著、ワニブックス)という本だ。

 

書店に行くと平棚に置いてある、自己啓発本とか「頑張ってね」「頑張らないでね」類の本。

たいてい、立ち読みはするが買わない。

 

これも流行の「頑張らなくていいよ」系の本だと思い、気軽に手に取った。

買うつもりもなかった。

 

棚には、同じ著者のほかの本も並んでいた。

もちろんそっちも立ち読みした。

(同じ著者の「私は私のままで生きることにした」の方が有名かと思います。)

 

立ち読みの結果。

「頑張り過ぎずに、気楽に」は、「家に帰ってゆっくり読みたい」と思えた。

買うか買わないか逡巡した挙句、買った。

 

私は、「ほしいな」と思ってもすぐに買わないようにしている。

「ほしいな」と思ってすぐに買うのは、衝動買いってやつですよね?

もう「衝動買い」から卒業したつもり?だ。

 

しかしその本を立ち読みした時、書かれていることがなぜか心に響いたわけである。

う~買うのやめようかな。

でも、やっぱり家でゆっくり読みたいぞ。

(なーんだ、結局衝動買いじゃんか)。

 

思うにこの手の本は、その時の自分の心の琴線にふれたかどうか、で購買意欲が出てくるようだ。

こういう本を読みたいと思ったこと自体、「毎日頑張り過ぎたくない」と思っているんだろうなあ~。

 

で、本の感想を書きたい。

著者は韓国人。

韓国も日本と同じで、同調圧力の強い社会と聞く。

だから以心伝心が当たり前とか、上司からのパワハラとか、著者の抱く人間関係の悩みに我々日本人も共感を覚えるんだろうと思った。

 

本の中で、「あ~そうだね!」と思う点はたくさんあった。

でも、それは読者個人個人の悩みとか考えにもよると思うので、そこは割愛。

 

何が良いって、この本の構成が良かった。

と私は思いましたよ。

 

「他人にふりまわされないように」「気楽に自分らしく」「我慢せず」「ピリピリせず」というように、ステップを踏んでいく。

それは自分を守ること、自分を愛することを学ぶ過程だ。

 

そして、最後の章では「愛を学ぶということ」。

うん、わかるわかる。

人生の難しさとは、究極的には「他人を愛する」難しさだ。

 

人生では、自分を大事にすることがまず大事。

自分を愛することが出来るようになったら、他人を愛することも出来るだろう。

自分の友達、親、兄弟、子ども、妻、夫、社会の人々、すべてが愛の対象だ。

 

つまり。

この本の読み始めは、「うん、生きるって大変」と思いながら読む。

自分にも当てはまることも多いしね(そうじゃない人は、こういう本は不要です)。

そして、だんだん「そうだよね、大変だけど気を取り直して少しずつ進みたいね」と思う。

最後に「他人を愛すること」の大切さへ読者を導いていく。

というのが、この本の構成です。

 

自分を愛することだって難しいんだから、他人を愛することなんてもっと大変だよね~。

と読後に思いました。

でも、「無理感」はない。

それは著者が「人間関係を完璧にすることは出来ない、ということを認めている」ことが伝わるから。

無理しなくていいんです。

 

そうなんですよ。

人間関係というものは難しいが、それでも人生は続く。

今も対人関係に悩む「普通の人」である著者が、一生懸命考えて作った本であることが良く分かる。

私は彼女に個人的に好感を持ちました。

違う国にいても、同じようなことを考えるものなんですね。

 

ところで。

この「頑張り過ぎずに、気楽に」を読んで、一つ思い出したことがある。

それは最近何かで読んだ、「清く正しく美しく」を求めない、ってことである。

 

今までの私の人生にも、いろんな人が登場してきた。

いい年齢のおじさんなのに定職についてないとか、昇進を断った人とか、学業成績優秀なのに専業主婦になった人とか。

そういう人に会うたびに、若かりし頃の私は「なんでそうなっちゃったんだ」と心の中でネガティブにとらえていた。

 

しかし、人生を続けていると分かるようになる。

「清く正しく美しく」生きていて人生に黒歴史無し!汚点無し!なんて人は、そうそういないのである。

生きていれば、病気、出産、介護、借金、いろいろある。

履歴書にブランクだって発生する。

常に自分の思い通りに物事が運ぶことなんて、ありえないのだ。

 

その人の責任ではないのに、その人にばかり逆風が吹くこともある。

これだけ努力しているのに、環境のせいで報われないこともある。

その人の苦境は、その人が好き好んでそこに陥ったわけではない。

 

人間に「清く正しく美しく」を求めすぎるのは無理がある。

「正論」がもっとも適切なわけじゃない。(でも、私も正論を振りかざしがちだ。反省!)。

 

「頑張り過ぎずに、気楽に」にもあった。

「さまよっていた日々ほど熾烈なものは無い」のだ。

回り道してきた、ということは、その人は人生の荒波を乗り越えサバイブしてきた、ということだ。

 

そうやって相手の苦労が想像できるようになれば、「愛すること」に一歩近づけるのかも。

他人に対する寛大さを身につけるには、人生は多くの勉強の機会に満ちています。

 

人生の悩みはほとんどが人間関係の悩み。

でも、自分を愛すること、他人を愛することが出来れば、この社会はちょっと住みやすくなる(はず)。

 

そして人生には苦労がつきものだが、乗り越えてきた人はその分、成長しているわけだ。

そういう人を評価する社会になってほしいなと思う。

たぶん「頑張り過ぎずに、気楽に」の著者も、そういうことを言いたかったのだと思う。

(ものすごくアバウトなまとめだが…)。

 

私には伝わりましたよ。

「人生は大変だけど、一緒に少しずつ進みましょう」という著者のメッセージが。

 

いろいろ励まされたので、この本は手元に置いてちょいちょい読み返そうと思います。

私も誰かを励ますことのできる人になりたいものです。