オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

グリーンマイル

 

スティーブン・キング

大作家である。

 

知らない人はいないだろう。

彼の多くの作品が映画化されているし。

 

スティーブン・キングの小説をもとにした映画なら、私も見たことがある。

でも、小説そのものは読んだことが無かった。

 

キング作品と私の出会いは、私のアメリカ留学時代にさかのぼる。

アメリカ人の同級生が、スティーブン・キングのファンだったのだ。

 

「面白いから読んでみて!」

と彼女からほぼ無理やり?キングの小説を押し付けられた。

 

ファンは、推しの作家の小説本を「頼みもしないのに」貸してくれることが多い。

「ね、面白いでしょ?」と、沼に引き込むもくろみなんだろう。

日本でもアメリカでも同じですね。

 

で、肝心のスティーブン・キング作品だ。

何の小説を借りたか忘れてしまった。

当然だが英語なので、2ページ目くらいで挫折。

 

当時の私は、英文を読むのがめちゃくちゃ遅かった。

大学の授業で出された宿題や教科書を読むのすら、辞書を引きながら四苦八苦。

英語で書かれた小説なんて、読む暇があるわけない。

 

しかし、そんな中。

大学で知り合った、とある先輩学生A君(アメリカ人)と話していた時。

 

趣味を聞かれ、適当に「本好き」と答えた。

するとA君は喜んだ。

自分も読書が大好きなのだという。

 

「最近、何かの本を読んだ?」

と聞かれた。

 

「ま、まあ、うん。」

私はあいまいに答えた。

すると、「同じ趣味の仲間同士」話が出来ると勘違いしたらしく、A君は身を乗り出してきた。

 

「ホント?どの作家の本を読んだの?」

 

私は苦し紛れに答えた。

 

「その…えっと、友達から借りたスティーブン・キングの…。」

(2ページしか読んでいないが…)。

 

ところが、彼はスティーブン・キングの大ファンだったのである。

 

「ええっ?スティーブン・キング?」

「ホント?わあ、日本人もキングを読むんだ!!」

「僕はたいていのキングの小説は読破してるんだ!」

「何の本?」

「どんな感想を持った?」

 

矢継ぎ早に聞かれて私は返答に窮した。

「その…えっと…まだ読み始めたばかりで」

 

彼が急速にしぼんでいくのが分かった。

ごめんよ…留学生にとっては、英語の授業について行くのだって必死なんだからさ。

英語の小説を読む、精神的余裕も時間的ゆとりもないんだよ。

 

くそお。

A君がスティーブン・キングのファンでなければ、適当に「面白かったよ」なんてごまかそうと思ったのだが。

うまく行かないものだ。

 

そんな苦い?思い出があったので、キング作品から足が遠のいていたのである。

でも、映画は結構見ましたよ。

スタンド・バイ・ミー」とか「ショーシャンクの空に」とか。

ホラー系は苦手なんですけど。

 

そして年月が経った。

映画化された作品のラインナップを見て分かった。

スティーブン・キング作品は2種類に分かれるわけだ。

ホラー系とヒューマンドラマ系。

 

前者はあいにく得意ではない。

しかし、後者のジャンルの小説なら読みたいとずっと思っていた。

 

一冊くらいは読みたいなあと思っていたところ、図書館で発見した「グリーンマイル」。

これがぺらっぺらの薄さの文庫本であったのである。(注:新潮文庫です)

 

速攻、借りる。

なんだか最近、「リベンジ読書」が多いなあ。

 

読み終えて分かった。

これはシリーズものだ。

つまり、次の本を借りないと、何の話やら全く分からんのである。

一話完結かと期待していたら、違っていた。(借りる前に確認しろよ…)

 

小説の後の解説を読むと、「グリーンマイル 1」には多くの伏線が張られているという。

これら伏線が「2」以降で次々に回収されるんだそうだ。

 

く~っ!

やっぱり、「2」以降を読まにゃあいかんではないか!

「薄いぞ!」と喜んではいけなかったのだ。

 

というわけで、「1」だけ読んでも何の感想も書けないのだが、こうやって記事を書いている。

じゃあ何が面白かったのかというと、小説の前書きだ。

 

キングは饒舌な小説家のイメージがある。

前書きで、「なぜこのようなシリーズ形式になったか」の顛末を説明してくれている。

「饒舌作家」の期待にたがわず、そこだけ読んでも楽しめるのだ。

 

こんな場面もある。

キング氏が12歳の時。

お母様がアガサ・クリスティのミステリー小説を読んでいるところを目撃した。

私も小学生の時はハマったぞ、クリスティ。

 

で、彼のお母様。

まだ最初の50ページくらいしか読んでいないのに、小説の結末を知るために最後の部分だけ先に読んでいたという。

読みかけのところに、しおり代わりに指を挟みこんで。

うん、私もよくやるよ、これ。

 

ミステリーでは、最初に事件が起きる。

怪しい登場人物が次々に現れ、第二の殺人が起き、探偵が登場。

自分も推理しながら読むが、読み進める前に結末が気になる。

…ってのは、日本人であれアメリカ人であれ同じようだ。

 

「たまに誘惑に抵抗できなくなるのよ」

 

とは、ミステリーの結末を先に読んでいたところを息子に見つかった、キング氏のお母様の弁。

私なんて、たまにどころかいつも誘惑に負けている。

 

そしてこの「グリーンマイル」だ。

読者は「2」以降を読まないと小説の全体像すら分からない。

つまり、「1」を読んだだけでは消化不良だ。

スティーブン・キングのお母様や私のように「先を知りたい」読者にとっては、もどかしさが残る。

 

この、「次を読みたくなる感じ」はさすがスティーブン・キングだ。

しかし、一冊ずつ借りるとまた「先を知りたい」と、消化不良になること間違いない。

 

うーん、最後まで読み通したい。

残る全巻いっぺんに借りないと気が済まないなあ。

 

あ~頼むから全巻まとめて分厚い一冊にしてくれ!

百年の孤独」も「吉里吉里人」も本は分厚いが、面白かったからあっさり読めたぞ!

 

それとも、今後はキング氏の作品で分厚い一冊本を借りようかな。

それなら確実に「一冊一話完結」だろうし。

 

やっぱり最初からそうしておけばよかったのだ。

薄い本狙いはいかん。(すいません)

 

まあ、なんとなく予想がつく。

私もスティーブン・キングのファンになりそうなことが。

話が面白いからこれだけ映画化されるんですよね。

 

どうでもいいが、長年の私の夢。

『自分一人が住む自分の家を建て、朝から晩まで誰にも邪魔されずに本を読む』。

 

早朝に誰かがわさわさ起きて、自分の安眠を邪魔されることもない。

誰かの食事の支度をする必要もないし、24時間自分の好きなように時間を使える。

夢のまた夢だが、妄想するだけで楽しい。

 

そんな夢のような?環境になったら、そりゃ家にこもって本を読みまっせ。

シリーズ本も山積みにし、お菓子を食べながら、好きなだけ読むのだ。

 

夢はなかなか実現されないまま、何年も過ぎている。

狭い家に置き切れないので、定期的に本を処分(しかしまた買ってしまう)。

あ~好き放題本が読める身分になりたいものだ。

 

とは思うものの、たぶん今生にはそんなチャンスが巡ってきそうにもない。

生まれ変わったらの楽しみにとっておこう、と思っている。

 

あ、でも次回生まれ変わったら「お金持ちのマダムの飼い猫」になるという夢もあるんだった。

読書三昧か、猫になって終日ゴロゴロするか。

どちらの夢も捨てがたい。

 

 

 

 

ラテマネー

 

「いかにしてお金を貯めるか」

というのは、全世界、全人類共通の普遍的テーマだ。

 

私も倹約をしなくてはと思っているのだが、ついつい忘れがち。

たま~に、

「はっ!そうだ!お金を貯めなくては!」

と思い出す、といった具合だ。

 

先日、「ラテマネー」という単語を知った。

読者の皆さんも耳にしたことがあるかもしれない。

たぶん、こんな文脈で。

 

「毎日出勤時に買うカフェラテも、積もり積もればそれなりの金額を支払っていることになる。

なので、毎朝のカフェラテを買わない(あるいは買う頻度を減らす)だけで節約になる。」

 

つまり、ラテマネーとは、カフェラテに毎日費やしている少額のお金のことである。

少額と言えど「ちりつも」で、ロングランでは結構な額になるはず。

 

誰か、私の出勤を物陰から見ていたんだろうか?

私は、まさに「毎朝出勤時にカフェラテを買う」人間なのである。

(厳密に言うと「ブラックコーヒーにミルクを入れ」ているんだが…)

 

通勤途中にコンビニFがある。

コーヒーを購入すると、「コーヒーカード」にスタンプが押される。

スタンプが一杯になったら、アイスかホットのコーヒーSサイズが無料になる。

これを目当てにせっせと買っている。(←思いっきりお店のカモになっている)

 

もし仮に「うわ、電車に間に合わない!」と駅まで走り、Fに立ち寄ることが出来なくても心配無用だ。

職場の近くにはコンビニSがある。

ここのコーヒーは美味しいので、ここで購入することもある。

 

たまに専門店で買うこともあるが、たいていコンビニだ。

コンビニのコーヒーは専門店で買うよりははるかに安いから、ま、大した金額じゃないだろう。

 

しかし、「ラテマネー」という言葉を耳にしてから気になる。

一体私はカフェラテ(カフェラテじゃないが…)にいくら使っているんだろう。

家計簿(一応つけている)で調べてみる。

 

う!                                                                                                                                       

私は一か月あたり、なんと◎◎円もコーヒーに費やしている!(←恥ずかしくてここに書けない)

 

敗因。

たくさんある。

コーヒーついでにおいしそうなパンを買った、みたいな「ついで買い」も結構ある。

 

だめじゃん。

典型的な「ラテマネーでお金が貯まらない人」じゃん。

 

というわけで、朝にコーヒーを買うのをやめてみた。

しばらくして家計簿を見直すと、確かに節約効果がある。

 

しかし、何かが足りない。

仕事前にコーヒーを飲むのが習慣なので、朝にコーヒーを飲まないと仕事に取りかかれないのだ。

どうしたらいいんだ。

 

お昼休憩にお弁当を食べながら、この「ラテマネー」をめぐる自助努力を同僚たちに話した。

なんとか「ラテマネー」を圧縮して倹約したいんだけどね、という話をした。

すると、同僚たちは誰しもが何らかの貯金術に挑戦していることが分かった。

 

同僚のAさんは「週のうち、1日は全くお金を使わない日」を設けているのだという。

つまり、月に4日は「お金を使わない」ようにしているのだそうだ。

 

おお。

いいことを聞いた。

その倹約術、やってみよう。

 

コーヒーを完全にやめるのは難しそうだが、「お金を使わない日を毎週1日だけ設ける」ならできそうだ。

1週間のうち、1日だけでいいならダイエットのようなものだ。

なめてかかっていたら、これが難しかった。

 

電車は定期券があるので切符を買う必要はないとして。

まずコンビニでコーヒーを買いそうになる。

我慢して出勤する。

 

会社の自販機で飲み物を買いそうになる。

買わないで済ませるため、お茶を自宅から持参する。

ランチも買わずに済むよう、自宅から弁当も持参する。

 

終業後、様々な誘惑を振り切り、まっすぐ帰る。

しかしうっかり「あ、家に卵が無いや」なんて思い出すと、足はスーパーへ向かってしまう。

「お金を使える場所」へ行ってしまったら、このゲームの負けだ。

 

やってみると、毎週一日だけ「お金を使わない日」を設けるのは思ったより難しい。

月に1日、「お金を使わない日」を設けるだけでも大変だ。

 

このゲームの効果。

無駄な出費を削減というのもあるが、「ふだん無意識にお金を使ってしまっている自分」に気づくことだ。

「お金を使わない日」がちゃんと出来ているAさん、すごいわ…。

 

同僚B氏は諸カード類や電子マネーの使用を極力避け、現金勝負にすると言っていた。

現金だと「お金を使ってしまった罪悪感」をより感じられる。

というのが彼の理由だ。

 

お金を使う罪悪感か…。(もうすでに味わっているけど)

現金勝負も、倹約意識の醸成に効果ありそうだ。

やってみよう。

 

このゲームにはプラスアルファがある。

テレビで女優のHさんが言っていた。

「ふだん、私は財布に2千円くらいしか入れていないんですよ。」

 

なんですって?

女優なのに2千円?

いや、女優のように不安定な収入だからこそ、無駄遣いしないよう財布にお金を入れておかないんだろう。

 

現金だけで勝負。

そして財布に入れる現金も少なく。

ラテマネーで貯金を垂れ流している場合ではないぞ。

 

B氏方式の「現金勝負」「財布に入れる現金は少なく」は、なかなか強烈な節約効果があった。

やはり、「持っていなければ使わない」のである。

 

財布に2千円しかないことを忘れ、店に入ってついつい何かを買いそうになる。

気に入った商品をレジへ持っていこうとして、はたと気づく。

 

「しまった、2千円しか持っていないんだった!」

 

このゲームの禁じ手はカードだ。

しかしカードを使ったらそこでゲーム終了。

なんのためにこのゲームをしている?

節約だったよね?

 

さんざん逡巡した末、商品購入を断念する。

でも、そんなに悲壮感はない。

 

よく考えれば、「似たような物が家にある」「あれで代替可能」「これは今すぐ必要ない」と思うからだ。

ってことは、2千円以上財布に入っている時は、かなり無計画に買ってるわけだな。

反省。

 

この方法を続けているうちに、無駄なものを買わなくなってきた。

しめしめ、B氏の倹約術、効果あるじゃん。

私は調子に乗って財布に入れるお金をさらに減らした。

 

そんなある日。

「たまにはお昼に一緒に行こうよ。」

同僚に誘われた。

うん、いいね。

 

今朝は疲れていてお弁当を作成する余裕が無かった。

たまにはみんなと楽しく食べたいな。

 

そう思って財布を見たら、176円しか入っていなかった。

 

慌てて職場近くのATMでお金をおろし、同僚とのランチに合流した。

やっぱ、ちょっと倹約のやり過ぎだろうか?

一瞬そう思ったが、特段反省もしなかった。

 

また別の日。

終業時間間際に仕事が舞い込んできて、残業する羽目になった。

 

終電前に何とか仕事を終わらせ、へとへとになって帰宅。

最寄り駅に到着したが、夕食を食べていないので飢餓状態である。

スーパーもこの時間はとっくに閉まっている。

 

仕方なく、コンビニに寄った。

この時間、夕食を食べるのは体に悪いのは分かっている。

でもカップラーメンくらい食べないと、あまりに空腹過ぎて眠れない。

 

胃にもたれないカップラーメン、無いかな。

空腹を満たせれば何でもいいや。

 

そして、食欲をそそる包装のカップラーメンを手に取り、レジへ向かった。

む?待てよ。(足が止まる)

今日はお金を持っていたっけ?(いやな予感)

 

いくらお金を財布に入れていないとしても、500円玉くらいあるでしょ。

それくらいあればカップラーメン1つくらい買えるだろう。

 

内心焦りつつ、カバンを開け、財布を取り出す。

財布を開けて、思わず二度見した。

なんと、47円しか入っていない。

脱力した。

 

一体いつからこういう状態なんだよ…。

この期に及んでこれかい…。

これで今日一日、職場まで行って仕事してきたわけか。

 

もし帰り道に強盗に襲われて「金を出せ」と言われても、あるだけの47円を差し出すしかない。

「これしかないのか?お前、ふざけんなよ」と逆上されても困る。

私だって困ってるんだよ、100円すら無いんだから。(←逆ギレ)

 

コンビニの片隅のATMで、急遽お金をおろしたことは言うまでもない。

その時、時間外だかで手数料も取られた。

無駄な出費になってしまったわけである。

 

というわけで。

AさんやB氏の節約術。

倹約生活にかなりの効果があることを、身をもって体験した。

 

結論。

でもさ、なんでもやり過ぎはいかん、やり過ぎは。

 

失敗を経てよく分かった。

節約するのに最も手っ取り早い方法は、「そもそもお金を持たない」ことだ。

無ければ使わない。

 

こんな荒療治?のおかげで、ラテマネーの圧縮がかなり出来るようになった。

ダイエットと同じで、節約もやり過ぎると体や精神に悪いんですけどね。

適度に細々と継続するのがおススメです。

 

 

猫トイレ

 

野良猫チビが我が家に姿を見せなくなった。

35度を超える猛暑が続き、さすがに猫たちもバテているのかもしれないが、心配である。

 

過去の記事にも書いたが、チビは二年近く前に我が家の近隣に捨てられていた猫である。

とうとう我が家は決心し、チビを飼うことにした。

 

そこで捕獲である。

家の者たちと相談し、チビ捕獲作戦を考えた。

 

チビが現れたらエサを室内に置き、家の中に入れて戸を閉める。

そして彼が慣れるまで1か月くらい室内で飼う(そのまま家猫にしてしまう)。

慣れたら獣医に連れて行き、予防接種などを済ませ、そのままうちの子だ。

毛皮がどえらく汚いので、風呂にも入れるのだ。

 

「そんなうまく行くかなあ~」

そういう私に、家族は自信満々である。

「大丈夫、エサにつられて家に入ったらこっちのもんだよ。チビはがっついてるんだから」

 

しかし、捕まると分かっているのか、ヤツは姿を現さなくなった。

なかなかうまく行かないものである。

 

そうだ、チビを捕獲する前に準備しておくものがある。

例えばトイレだ。

以前飼っていた猫・ぽん太のトイレは、引っ越しのどさくさでどこかへ行ってしまった。

トイレ本体があったとしても、猫砂を買わにゃいかん。

 

そんなことを考えながら先日、ホームセンターへ行った。

「午後から雨」という天気予報を信じ、自転車で出かけた。

秋らしい涼やかな風が吹く朝だった。

 

ホームセンターに着いてまず、ペットコーナーへ向かった。

ここのホームセンターのペットコーナーは充実している。

熱帯魚コーナーで、透明なエビちゃんの泳ぐ姿を堪能。(←何やってるんだ私)

ついでに生体販売コーナーで、愛くるしい子犬や子猫を見る。

 

実は私は、いかにも売れ筋の可愛らしい子犬や子猫にはさほど興味が無い。

むしろ、年寄りの犬とかふてぶてしい中年猫なんかが好きだ。

売れ残って年を取った犬とかいたら引き取りたいんだが。

 

一通りペットコーナーを見終えたので、猫トイレを探すことにする。

はて、どこだろう。

 

犬トイレ、犬トイレ砂、ドッグフードコーナーを過ぎた。

一応、犬トイレの価格をチェック。

だって、小型犬用トイレなら猫も使えるんじゃないでしょうか、サイズ的に。

 

しばらく歩いていくと、猫コーナーに入った。

猫トイレを見て愕然とした。

小型犬トイレと大きさはさほど変わらないのに、なんと猫トイレの方が値段が高いぞ!

なぜだ?

 

猫トイレもいろいろある。

オープンタイプ(天井部分が無く、浅いトレイ型のタイプ)、ドーム型(閉じられた箱の中に入って用を足すタイプ)、下に引き出しが付いているタイプ。

 

ううむ。

私が入るトイレではないし、猫的にはどれがいいのか分からん。

しかもお値段。

どれもそれなりですな。                                                                                                                                       

 

犬関連のグッズの方が高価だというイメージがあった。

どうやらそうでもない。

もちろん、大型犬になったら破格の値段になるんだろうけれど。

 

猫なんてそんなに体が大きくないのに、なぜだ?

なぜ犬グッズより値段が高いのだ?

腑に落ちない。

 

ぽん太はオープンタイプのトイレを使用していたのだが、用を足すとき人目を気にしていた。

まあ、誰だって用を足すときに誰かに見られたくないですよね。

動物は用を足すときは一番防御が弱くなるとか聞くので、落ち着かないんだろう。

我が家では、ひと気のない?洗面所の片隅に彼の猫トイレを置いていた。

 

それを考えると、やはりプライバシーの確保は重要だ。

なので、箱タイプがいいのかな。

トイレに天井と壁が付いていれば、人間に見られることもないしね。

 

いくつかの猫トイレがバーゲン価格になっていたので、手に取った。

カラーも3色ある。

 

ううむ…。

どのトイレも何となく狭い、ような気がする。

体の小さい猫ならともかく、オス猫になると体は大きい。

この広さのトイレで大丈夫かな。

 

ぽん太は体が大きかったので、たまにトイレからはみ出していた。

床に敷いた新聞紙に、時折うんちが転がっていることがあった。

あれを見るたびに、ぽん太は狭いトイレで用を足しづらいんだろうな、と反省したものだ。

彼のうんちを拾い上げる私を、ぽん太は物陰からじっと見ていたこともあった。

 

なので、あまりに小さいトイレはいかがなものか。

箱型のトイレは人間に見られることなく、安心して用を足せるだろう。

しかし狭すぎて、トイレの壁にうんちが付いているのもなあ。

 

どうすればいいんだ。

私は、箱型トイレのドアをぱこぱこと手でもてあそびながら、猫になった気持ちで悩んだ。

 

おっ。

棚の上に、かなり大きなトイレを発見。

底が深いし、横にも長い。

ありがたいことに値下がりしている。

 

付属の説明書を読むと、なんとトイレの大きさは猫の体長の1.5倍だという。

これなら多少の巨大猫でも快適に用が足せるだろう。

 

よく見るために、私はその浴槽型?トイレを棚から降ろした。

ちょっとした衣装ケースくらいの大きさだ。

すごいなあ。

私も入れそうだぞ。(←もう違う活用法を考えている)

 

悩んだ挙句、先ほど見たいくつかの箱型トイレを比較検討のために再び見に行った。

猫的にはふた付きが安心だよね。

でも、はみ出ることなく用を足せるのは、やはり広々とした浴槽型だぞ。

 

最終的に浴槽型トイレを買った。

ぽん太がトイレからはみ出して用を足していた姿が、どうにも忘れられなかったのだ。

ついでに猫砂も買った。

 

猫砂に付いていた説明書によると、猫にも好きな猫砂があるらしい。

 

真偽は不明だが、人気第一は鉱物系。

第二位は木系。

第三位は紙系、そして四位はおから系、五位はウッドチップなんだそうだ。

 

なぜ鉱物系の猫砂が猫に人気があるのか。

それは、猫は砂漠出身なので自然の砂に近い砂を好むのではないか、と解説してあった。

 

ふーん。

木のチップなら森林の薫りでいい気分で用が足せそうだが、猫の気持ちは理解しがたい。

 

猫トイレの方が高額という事実は理解しがたいが、ネコが好きな猫砂の研究とか、今のペット業界ってすごいなあ。

久々にペットコーナーへ行って、新しい発見があった。

 

レジを済ませ、自転車の荷台に意気揚々と浴槽型トイレをくくり付け、出発進行。

帰途に就いた。

 

ホームセンターを出てわずか1,2分走ったら、ぽつぽつと雨が降ってきた。

行く手の空は急速に分厚い雲が垂れこめ、怪しげな雰囲気。

ちょっと待ってよ、「雨は午後から」って言ってたよね?

 

と思ったのもつかの間、急に激しい雨が降ってきた。

「土砂降り」なんてものではない。

大粒の雨の5倍くらいあるような超大粒の特大雨粒が、それこそ水道管が破裂したくらいの勢いで降ってきたのだ。

いや、降ってきたというより叩きつけてきた?。

 

傘を持ってきていない。

おまけに、橋の上にさしかかってしまった。

避難場所もない。

天気予報め…と腹立たしく思いながら、自転車をこぐしかない。

 

あっという間に上着もびしょ濡れ。

パンツの裾までびっしょりになった(こんなの何年ぶりだ!)。

ちょっとした土砂降りだってこんなに濡れないのに、何だこのすさまじい雨は?

 

叩きつける雨で目を開けていられない。

うわ~、前が見えないのにブレーキもきかないよ~。

 

雨の束で顔を殴られているような、滝の中を自転車で走っているような。

そんな状態で角を曲がり、道を横断し、駅を通り過ぎ。

もう、前が見えませんてば。

 

走り続けていると、ようやく雨が弱まってきた。

そこまで来ると、後は自宅までもう少し。

どこかで雨宿りしようと思ったが、できる場所もなく帰ってきちゃったよ。

 

自宅に到着し、ガレージに自転車を入れ、自転車から降りた。

いや~すごい雨だった。

カバンの中の携帯電話は濡れなかったかな。

 

カバンからタオルを取り出し、顔や手足を拭いた。

やっとまともに周りが見渡せるようになった。

 

やれやれ、ちょっと人間らしくなった。

そうそう、猫トイレを買ったんだよな。

これでいつチビが来ても安心だ。

 

くくり付けた猫トイレを自転車の荷台から降ろそうとして、ぎょっとした。

なんと、大量の水がトイレの中にたまっていた。

先ほどの大雨で、あっという間に猫トイレに水がたまったらしい。

 

こんな大量の水を荷台に積んで走っていたんだ、私。

猫トイレにたまった水を捨てながら、ちょっと笑ってしまった。

なんでそんなに大量の雨水がたまったのかというと、そりゃ「浴槽型」だからですよ。

 

ちょっとした衣装ケースくらいの大きさがある巨大浴槽型猫トイレ。

チビがうんちをしてもはみ出さないように、という親心?で買った。

 

だが、こんなに水がたまるところを見ると大きすぎる気がしなくもない。

ここまで苦労して?トイレを買ってきたんだから、チビには早くこのトイレで用を足してほしいものである。

 

と思ってはいるが、まだチビは現れない。

浴槽型トイレは私の本棚に立てかけてある。

「鉱物系」の猫砂もスタンバっている。

 

もしチビがどこかのお宅に飼われて幸せになっているとしたら、この浴槽型トイレは無用の長物。

その時は、うーん、何か別の用途で使用するしかない。

 

しかし、思った。

猫のことを考え、猫を喜ばせようと思う猫好きの人がいるからこそ、ペット業界は利益を得ているわけだ。

猫トイレがやたら高額なのもそのせいだ。

 

私みたいなアホなヤツが、やっぱり猫業界のいいカモなんだな~。

でも、猫が幸せに暮らしてくれるなら、まあしょうがないや。

 

 

菜根譚

 

ついに、長年読まずに済ませていた「菜根譚」を読んだ。

中国の古典である。

 

いつから気になっていたかというと、高校生のころからである。

読まなきゃと思いつつ、常に忘れていたのである。

つまり、読みたいと言ってもその程度だった。

 

最近、図書館へ行くようになった。

所在なく本棚の間をウロウロし、面白そうな本を見つけては借りている。

そして発見したのだ、菜根譚を。

 

菜根譚。(さいこんたん)。

私がこの書籍のタイトルを知ったのは姉経由だ。

姉と私が高校生だった時、姉の国語の先生がおススメしていた本だった。

 

菜根譚ねえ。

実は、この年齢になるまで料理の本だと思い込んでいた。

日本でいえば豊臣秀吉の時代に書かれた、中華料理の指南本だと勝手に思っていた。

 

高校時代に、菜根譚ではない別の本を確か岩波で読んだ。

中国の料理法についての内容だった記憶がある(定かではない)。

 

卵をゆでると固くなる。

しかし、さらに加熱し続けると柔らかくなる…とか何とか、そんなことくらいしか記憶にない。

あ~どうでもいい内容しか覚えてねえな!!

 

そんなこともあり、「どうせ菜根譚も似たような本だろう」

と思い込んでいた。

だから、わざわざまた別の中華料理本を読む気がしなかったのである。

 

高校を卒業して早◎◎年。

また、私の前に立ち上がってきたのである、菜根譚が。

 

図書館でその書名を見た時、「もしやこれは例の」と記憶がよみがえり、手に取った。

パラパラとめくってみると、中華料理本ではなかった。

いわゆる「人生指南本」である。

 

「人間とはかくあるべき」「こんなことに気をつけましょう」ってヤツだ。

菜っぱと根っこの話じゃないわけだ。

 

なぜ「菜根譚」という題名か。

 

菜根譚の譚は「談」という意味らしい。

菜根とは、野菜や根っこのことだという。

菜根を食べ(つまり粗食に耐え)、切磋琢磨しろよん、ってなことらしい。

 

図書館には、なんと数種類の「菜根譚」があった。

(解説付きが多いってことは、原本は難しいんでしょうね)。

 

分かりやすくイラストが付いているタイプ。

原文(中国語)の読み下し文が付いているタイプ。

 

そんな中で、割と読みやすそうな新釈版にした。(「精選 新釈 菜根譚PHP研究所)。

選んだ理由は、「人生はくよくよしないほうがいい」と表紙に書いてあったからである。(←単純)

 

解説によれば、菜根譚は20代で読んでもあまりピンとこないらしい。

30代になってから読むと、理解できるようになってくるらしい。

 

うん、確かにそうだ。

読了してそう思った。

「そうそう、私も人生でこういう結論に達したわよ」って思うことが多かった。

やはり人生指南本はある程度の人生経験を積んできた人には読みやすいのかもしれん。

 

そういう意味では、社会に出る前の10代、または社会人生活を開始して間もない20代のうちに読んでおけばよかったかな、という気がしないでもない。

タイミングを逸した。

やはり高校の先生が勧めている時期に読んだ方が良かったわけだ。

 

菜根譚には人生についての戒めもあるが、仕事をする上での心構え的な言及もある。

例えば、「功名を無理に求める必要はない。(平凡でも)大過なく過ごす人生は素晴らしい」。

なんてのも、今となっては結構私の身に沁みる。

 

何年か前のこと。

職場では「業務軽量化しろ」と上司たちがしつこく言っていた。

分からんでもない。

仕事というものは、増やそうと思えばどんどん増えてしまうものだしね。

 

私は一応管理職(下の方だが…)なので、自分の部署での業務軽量化に取り組んだ。

そしてある日、人事のヒアリングがあった。

そこで聞かれたのが、「業務軽量化についてどこまで取り組んだか」である。

 

そこで、私は答えた。

「私の部署では◎◎をやった、無駄削減のため××に取り組んでみた、そして業務の軽量化が進んだ。」

 

すると、面接者(私の直属の上司ではなく、人事担当の役職者ね)が私に尋ねた。

 

「じゃあ、業務軽量化をして浮いた時間はどうするんですか?」

 

んなもん、決まっとるだろう(←エラそう)。

私は自分の信念に従い、笑顔で答えた。

 

「業務が早く終了したら、部下を早く帰宅させたいです。無駄な残業を減らして部下を休ませたいので」

 

すると、私の返答を聞いた面接者の顔がこわばった。

(あれ?間違った回答しましたかね?)

と思っていると、案の定、面接者は苦々しい口調で言った。

 

「浮いた時間で、ほかの仕事が出来るでしょ?」

 

私「…。」

(そういう回答を期待していたのか)

 

部下を休ませて何が悪いのだ。

ちゃんと終業時間まで仕事したのだから、帰宅させて何が問題なんだ。

 

とその時私は思った。

(反論はしなかったけど、反抗的な態度が顔に出ていたかも)

 

当然?私は昇進しなかった(笑)。

ま、そんなことが今日までにたくさんあった。

 

以前は「仕事を頑張り、会社から評価されたい」と思っていた。

でも、どうも会社的考え方と自分の考え方は合わないことに気づいた。

「女のくせに」なんて、年がら年中言われてきた。

 

そんなことが長年続き、遅まきながら、出世競争とかそんなものから降りることにした。

どうでもいいおじさんたちからの評価なんてどうでもいいや、と思うようになった。

きちんと仕事をして自分の生活が回れば、それだけで十分だと考えるに至ったのだ。

 

そういう「競争から降りた」状態になってから読む菜根譚

うーむ。

まだやる気満々だった時に読めば良かったのかな。

各種の諫言や金言を読むと、反省させられたり鼓舞されたりするんですけどね。

 

しかし、昔も今も人間は変わらないらしい。

「民衆を愛さない官吏は税金泥棒だ」なんて面白いのもあった。

(昔の中国にもそういう公務員がいたんだな)

 

そんな中、「誠実さが最も人間に必要」ってのは、激しく同意します。

 

有名大卒とかすごい会社でキャリアを積んだとか、イケメンとか美女とか。

そんなものは、働いていると案外些末なことだ。

どれだけ高学歴であっても、「誠実でない」というだけでその人のすべてが台無しだ。

 

「誠実である」ということは、人に信頼されるってことですよね。

人間関係において信頼されない人は、どうしようもない。

 

多種多様な金言があるが、特に社会人にとって必要なこと。

それは「誠実であること」、やっぱりこれに尽きる。

なので、ここは菜根譚の言う通り、「誠実であること」を肝に銘じて人生を過ごそうと思う。

 

と、ここまで書くと読者の方の反応は2つに分かれるかもしれない。

10代、20代の方は、「菜根譚は今から読んでも役に立つかも」と思うかも。

30代以上の人は、「もうある程度の社会経験を積んだから、読まなくてもいいかな」と。

 

いや、菜根譚はどんな年齢の人でも楽しめると思います。

 

「人の値打ちは後半生で決まる」なんて言われたら、今からでも?頑張ろうと思いませんか?

「早熟は晩成に及ばない」なんて、スロースターターの私なぞめっちゃ鼓舞されます。

「功績や学歴が無くても立派な人生を送れる」うん、そう思いたい。

「古い友人を大切にしなさい」そうか、新しい友人を増やすのもいいけど、古い友達も大事だよな。

 

などなど。

手元に置いておいて、たまにパッと開いてそのページを読む、なんて使い方もいいかも。

オリジナルの菜根譚は読むのが難しそうですが、これは「精選」で「新釈」なのであっという間に読めちゃいます。

 

というわけで、結論。

 

菜根譚自体は良い本だ。

何歳になっても学びのある本ではあるが、個人的おススメとしては、できれば若いうちに。

 

というわけで、本には読むタイミングというものがある。

と改めて思った菜根譚でした。

 

ところで、菜根譚を図書館から借りた際、つい「世界の朝ごはん おいしいレシピ集」も借りてしまった。

香港と台湾のおかゆがおいしそうだったからだ。

 

菜根譚=中華料理」、違いますからね!違いますよ!

一番「菜っ葉と根菜」に引きずられているの、自分じゃん。

 

「世界の朝ごはん」本については、また別の機会に記事を書こうと思います。

 

子どもの居場所

 

どうでもいい話で恐縮です。

 

最近、我が家の近くにスケートボードをしに来る子がいる。

中学生くらいの子たちなのだが、猛暑日でも滑っている。

 

我が家の裏は宅地だ。

かなり広い面積を宅地開発し、小さい区画に小分けにして販売した。

区画の間の道は広く取ってあり、舗装された道が袋小路のようになっている。

つまり宅地の向こうへ抜けることが出来ないため、住民以外の車が通ることはほとんどない。

 

しかも、区画はほぼ売れ残っている。

ようやく3,4軒ほど家が建ったが、それっきりだ。

どの売れ残り区画も草ぼうぼうになっている。

 

車どおりもないが、人通りもないわけだ。

なので、格好のスケボー練習場所になったらしい。

 

都内某区なんぞはスケボーが出来るように、階段やら手すりやらスロープやらがある。

そこまで恵まれた練習場所は、我が家の近所にはなかなかない。

 

我が家の裏でスケボーをしている子どもたちも、そんなすごい技を練習しているわけではない。

ビギナーなら、平坦な道でも十分楽しく滑れるようだ。

 

それに、子どもたちが集まると言っても最大で数人ってとこだ。

自転車で集まり、一緒にスケボーをし、疲れたら草むらに座って休んでいる。

もちろん、一人で練習している子も毎日見かける。

 

私はおととし日本に帰ってきて驚いた。

どこもかしこも高齢者が多いからである。

 

「日本ってえらく高齢化社会になったもんだな…」

と思っていた。

まあ、私の住居周辺だけなのかもしれないが。

 

なので、我が家の裏の広大な空き地が開発され、案の定?売れ残り、夏になって草ぼうぼうになったのを見た時、まずは治安の悪化を懸念した。

 

だから中学生くらいの子どもが集まっているのを見て、

「やれやれ、まだ子どもがいて安心した」

なんてホッとしている。

 

しかしだ。

この中学生たちが、である。

朝から夕方まで(ずっとじゃないけどね)、スケボーをしに来るのである。

 

我が家の裏なので、スケボーで滑っている音がよく聞こえる。

うちは暑いので窓を開けているしね。

 

夏休みだし、朝から暇なんだろう。

そんな感じに私は思っていた。

 

我が家には高齢の親がいる。

どうやら高齢者は、我々とはまた違う考え方だということを最近知った。

 

「若い人がたむろっているのを見ると感じが悪い」

というのである。

つまり、若い子がたむろっていると犯罪に結びつくかも…と、高齢者はそんな想像をするらしい。

 

ってねえ。

若い人って言っても中学生か、せいぜい小学校高学年だよ。

私に言わせたら、我が家の近隣におばあさん数名が集まり、嫁の悪口を大声で言っている方がよほど怖いよ…。

 

近所に大きな公園があるが、さすがにそこは保育園児や幼稚園児の来る場所のようだ。

ってことは、小学校高学年から中学生くらいの子どもたちはどこで遊んでいるんだろう?

 

自分の子ども時代を振り返ると、校庭や近所の川なんかで遊んだりすることが多かった。

今の子どもはそんな感じの遊びはしないようですね。

やることなすこと全て「危険だ」と大人に禁じられているしね。

 

で、スケボーである。

前述の通り、私なんぞ「日本はどこ見ても年寄りがあふれている」と危機感を持っているので、若者を見るとホッとする。

しかし、肝心のお年寄り世代はそうでもないらしい。

 

そんな折、家人が妙なことを言い出した。

 

「あのスケボーやってる子たちって、もしかして家に居場所が無いとかそういう子じゃないよね?」

 

むむむ。

そういうパターンもあったか。

 

昨今、日本は本当に欧米化したと思うのが子どもの虐待である。

自分がアメリカに留学して何に一番驚いたかというとこれだ。

アメリカの親は本当に自己中なんだな…。

この点、まだ日本の子どもは親に目をかけられているからまだマシだ。

 

と思っていたら、すぐに日本もアメリカのようになった。

毎日のように虐待やネグレクトの記事が新聞に掲載される。

児童相談所もパンクしているらしく、子どもの悲劇が終わることはないように見える。

 

そんなことを常々思っている矢先、気になることを家人が言い出すので私も気になった。

だって、猛暑なのに炎天下でスケボーですよ?

やっぱり家に居場所がないから、朝っぱらからスケボーをしに来るのかな。

 

いや、「外は暑いから何もしたくない」と思う私がすでに年寄りなのかも?

若者は夏休みだから、暑くたって関係ない。

スケボーの練習をしたいんだよね?

 

家族の間でそんなことが話題になっている折、近所のWさんの奥様が言っていた。

Wさんはすでに幼稚園児の孫がいる高齢のご夫婦である。

 

ある日、Wさん(夫の方)は道で可愛らしい小学生の一群に出会った。

(うちの孫もそのうちこんな感じに成長するのかも)とか何とか、微笑ましく思ったのだそうだ。

 

そして、よせばいいのにその小学生たちに話しかけた。

すると、警察に通報されたのだという。

Wさんいわく。

 

「別におかしな言動をしていないんだけどね。

『君たち、気を付けて帰りなさいね』みたいな感じで話しかけたんだけどねえ。」

 

いやいや、今の時代は昔と違うんですよ。

知らない人から話しかけられたら警戒されるんですから。

 

私だって、知らないおっさんが話しかけてきたら怖い。

最近は妙な人が多いから、おばさんだって気を付けているのだ。

 

Wさんは何もしていないことが分かり、何事もなく釈放された。

笑い話で済んだからいいのだが、そんなこともある。

 

私も、春に桜が美しかったときに写真を撮影していたら、見知らぬおじいさんにしつこく話しかけられたことがある。

桜を写真に収めようとカメラのファインダーをのぞいていると、不意に斜め後ろで声がした。

 

「私はソメイヨシノは撮影しませんけどねえ。」

 

はい?

驚いて振り返ると、知らないおじいさんだった。

しかも、かなりの至近距離にいたのだ、そのじいさんが。

私が写真を撮影しようとカメラを構えているときに、後ろに忍び寄っていたらしい。(怖いですね)

 

私が狼狽していると、そのおじいさんは何事もないように続けた。

 

「昔はソメイヨシノの写真も撮影していましたけどねえ。」

 

…って、どちら様?

(心臓バクバク)

 

夢中になって写真を撮影している時にふと振り返ったら、どえらい至近距離に知らないじいさんがいた。

誰だって驚くでしょう。

 

まあ、おじいさんの言いたいことは分かる。

私だって派手なソメイヨシノだけでなく、山桜の控えめな美しさが理解できる年齢だ!

 

でも、他人がファインダーをのぞいている時、後ろに忍び寄るなんて気持ち悪い。

アンタは私の友達でも家族でもないだろうが。

話しかけるなら、まずは遠くから「こんにちは」とか「桜、きれいですねえ」だろ?

こっちにも心の準備ってものがあるんだよ。

 

…と、色々言いたいことがあったが、知らない人を怒鳴りつけるわけにも行かない。

そんなことをしたら私の方が警察を呼ばれてしまう。

とにかく、怖すぎるので足早にそこを立ち去るしかなかった。

 

今年の春に、そんなことがあった。

なので、Wさんが警察に連行された件は笑えなかった。

話しかける方は悪気が無いのだろうが、話しかけ方に問題があるんだよ。

 

そこで、今回のスケボーの若者。

高齢者は「若者がたむろっていて怖い」という。

家人は「虐待されていて家に居場所が無い子どもだったらどうする?」という。

 

みんな妄想し過ぎじゃないの?

って思わなくもないが、ある程度の想像力は社会に必要だ。

例えば子どもが泣き叫んでいる声を聞いた時、「もしや、親に叩かれている?」という想像力は大事なんじゃないかと思う。

 

でも、難しいですよね。

朝からスケボーをしに来る中学生が、必ずしも家に居場所が無い、ってわけでもないだろうし。

 

うーむ。

今日は迷った末、散歩に行くふりをしてジャージを履き、そ知らぬ顔をしてスケボー中学生を観察することにした。

 

今日は、中学生は2人いた。

私は道を歩きながら彼らを観察した。

自転車で来ているらしい。

 

通り過ぎる風を装いながら、スケボーをしている中学生を観察した。

じろじろと見たせいか(すみません、目が悪いもんで)、彼らもスケボーをやめた。

 

この暑いのに、元気だなあ…。

まあ、2人いるから大丈夫かな。

1人だったら、もしかして本当に親に虐待されて家にいたくない子どもかもしれないし…。

 

やっぱり話しかけた方がいいだろうか?

いや、親に愛されている子どもなら別にほっておいても大丈夫だろう。

 

煩悶しながらその場を通り過ぎ、ぐるりと遠回りをしてまた元の道に戻ってきた。

すると、2人の中学生の姿はもう無かった。

なーんだ、今日はもう帰っちゃったのか。

 

もしかして、一番考えすぎなのは私なのかもしれない。

と思うと、ちょっと笑えてくる。

 

いやしかし、子どもが安全なのか気にする大人がいるってのは、いいことなのかもしれない。

と思うことで自分を慰めることにした。

中学生たちに警察に通報されないよう、遠くから温かい目で?見守ることにする。

 

 

風を探して

 

日本に住んだことのある友人、ルルちゃんが言っていた。

都内の自宅からどこかへ行こうと家を出ると、道でばったり日本人の知り合いに出くわすことがある。

そういう時、決まって聞かれるのだという。

 

「あら!どこへお出かけ?」

 

努力家の彼女は頑張って日本語を勉強し、相当上手に日本語を話す。

しかし、「どこって聞かれても返答に困る。」のだという。

外出の目的は買い物とか、散歩とか。

無目的に?東京をぶらぶらするために外出することだってある。

 

「だから、『どこまで行くの?』って聞かれても、どうやって日本語で答えればいいのか分からなかった」

という。

 

それは多分どの国でも同じですよね。

外出時に近所の方とその辺で出会い、「お出かけ?」と聞かれることはどの国でも一般的だ。

そういう場合は「ええ、ちょっと」とか適当に答えておけばいいんだが。

 

アメリカにいた時、同じようなことがたびたびあった。

英語でも「ええ、ちょっとそこまで」と言えばいいんだと思う。(違っていたらスミマセン)

 

相手だって、私の行き先をスパイよろしく細かく把握しようと思って質問しているわけじゃない。

しかし、渡米当初は私もどう返答すればいいのか分からなかった。

 

根が真面目?な私。

『どこへ行くの』と聞かれ、自分の今日の計画を頭の中で整理した。

 

「今から○○へ行って、そのあとに××へ行って▽▽を買って、それから…」

 

と、たどたどしい英語で必死に説明すると、相手のアメリカ人はたいてい面食らった顔をしていた。

そりゃそうですよね、そこまで聞いてないのに。

 

日本で外国人に日本語を教えたときも、多くの学生から似たような質問を受けた。

 

「外出時に会った近所のおばさんが『あら、今日はどちらまで?』って聞くんだけど、答え方が分からない」

 

うん、わかるわかる。

語学の問題もあるが、むしろ文化的な問題。

みんな、日本人から聞かれたら返答に窮しているんだろうなあ。

 

「どちらまで?」

って質問は、単なる挨拶に過ぎない。

どこへ行くのと聞かれたら「ちょっとそこまで」とか適当に答えればいいんだよ。

と説明した。

 

しかし、日本語初心者の学生がたどたどしく「ええ。ちょっと。そこまで。」と呪文のように唱えるのを聞くと、何だか違和感もなくもない。

やはり自然な会話には「呼吸」ってものも必要なんだな。

 

インドネシアには「ええ、ちょっとそこまで」にあたる言葉がある。

チャリ・アンギン(Cari angin)というのだそうだ。

 

チャリは「探す」、アンギンは「風」。

つまり直訳すると「風を探す」という意味なのだ。

「どこへ行くの?」の回答が、なぜ「風を探しに」なんでしょうかね?

 

私のインドネシア語力はかなり低い。

アンギン(angin)に似た言葉でアンジン(anjin)という言葉がある。

アンジンは「犬」という意味だ。

 

インドネシア滞在中、私はアンギンとアンジンを常に混同する癖があった。

紛らわしくてどうにもこうにも覚えられないのだ。

 

外出しようとしたら、アパートを清掃している掃除夫の男性に「マダム、どこまで?」と聞かれたことがある。

単なる社交辞令なのだが、私は頑張ってインドネシア語で返事をしようとした。

かっこよく「風を探しに」と言った(つもりだった)。

 

しかし、どうやら「犬を探しに」と言ってしまったらしく、「どんな犬だ」と根掘り葉掘り聞かれたことがある。

相手が「俺も探してやる」と言うに至り、ようやく自分の間違いに気づいた。

行方不明になった犬を探しに外出。

まあ、ありえないことではないが。(犬は飼ってません)

 

こんなこともあった。

ジョグジャカルタへ出張に行った時のこと。

私はひどい風邪を引いてしまった。

仕事先のインドネシア人の方々に迎えに来てもらったのだが、鼻水も咳も止まらない。

 

「うわ、ひどい咳だね。風邪(angin)引いたんだね」

インドネシア人に言われた。

 

なるほど、風邪(=cold)はanginと言うのか。

日本語だと風邪と風が同音異義語だが、そんな感じ。

 

移動中、コンビニで「風邪の時になめるアメ」を買うことになった(インドネシア人のおススメ)。

インドネシアで働くようになった当初、そんなものがあるとは知らなかった。

「トラック・アンギン」(tolak angin)というのが商品名だが、アメやシロップ等様々な商品がある。

 

鼻水をすすりながら、コンビニ店員に尋ねた。

「すいません、風邪引いたんですが、トラックなんとかってありますか?」

 

隣で聞いていた仕事先のインドネシア人(心配してコンビニまで付いてきてくれた)が、私の脇をつついた。

コンビニ店員は笑っている。

 

「犬をひいたんじゃなくて、風邪を引いたんでしょ?」

 

(…またやっちゃったよ。)

こんな感じで、どうにもこうにも「風邪」「風」と「犬」の区別が最後まで付かなかった。

 

結局風邪が悪化し、ジャカルタに戻って病院へ行った。

その際も「風邪なんですけど」と看護師さんに説明した(少なくても、説明を試みた)。

 

絶対に犬と間違えないぞ!犬じゃない方だ!

と毎度毎度思うのだが、看護師さんは苦笑している。

その笑顔を見ると、(あーあ、また犬と間違えたよ)と分かる。

間違えるたびにインドネシア人から、「犬」と「風」(または「風邪」)の違いをご教授いただく。

 

「犬と間違えないように」と思い過ぎて、毎回間違える。

どうしようもない。

 

話が脱線した。

というわけで、私のインドネシア語は相当ひどいものだ。

 

最近は覚えるより忘れるスピードの方が速い。

インドネシア人は優しいので、「外国人だから仕方ないな」と温かい目で見てくれる。

間違えながら覚える、とか言うが、私は間違えてもまた次回同じ間違いをしてしまう。(←終わっている)

 

外国語を勉強すると、「なぜこういう言い方をするんだろう?」と思う言葉がたくさんある。

多分、何らかの文化的背景があるんだと思うんだが、それを知らない外国人としてはそのまま覚えるしかない。

「風を探して」もその一つだ。

 

タンココ保護区の浜辺を、無目的にぶらぶら歩いていた時に思った。

この「無目的に歩く感」が風を探す感じなんだろうか?

まあ、犬を探すよりは涼しくていいや。

 

 

 

妖怪

 

先日、NHKのBS番組で「実際に妖怪を見たことのある人」の特集をしていた。

番組タイトルは、忘れてしまった(すみません)。

視聴された方はいらっしゃるでしょうか。

 

この番組のポイントは、「日本全国に妖怪がいる」ということではない。

「現実に妖怪を見た人から話を聞いた」体験談という点だ。

つまり、妖怪を目撃した方々はご存命なのである。

 

んなバカな。

と思うが、実際に妖怪を目撃したり体験したりした老若男女が日本全国にいらっしゃるのだ。

 

私もマンガやアニメに登場する妖怪は好きだ。

しかし、現実に彼らが存在するかというと疑問だ。

想像の産物だろうと思っている。

 

でも、「見た」人がいるなら仕方ない。

(このあたりの感覚、スペイン人がよく言う「俺は信じないけど、実際にいるんだよね」ってヤツだ)。

 

チャンネルを変えて別の番組を見よう、と思ったのだが、なぜか番組を最後まで見てしまった。

やはりNHKだけあって、「妖怪は怖くて恐ろしい」という見世物的な内容ではなかった。

民俗学的な切り口だが、学術的にはそこなんだろうと思う。

 

(ここからは、番組を見ていない方のため内容を説明したい。細かいところで記憶違いがあったらご容赦くださいませ)

 

岩手県岩泉町はカッパ伝説で有名なんだそう。

そこに住む80歳の女性は、小学4年生の時にカッパと遊んだことがあったという。

 

80歳の女性が小学生の時…って、数十年前のことですよね。

ってことは、何百年前の昔話ではない。

うーむ、妖怪って現代でも出没するってこと?(←ここが番組のキモ)

 

彼女が小学生だったある夏、友達と川で遊んでいた。

するとカッパが出現して、一緒に水遊びを始めた。

カッパは、人間のやることを真似するのだという。

 

右手でカッパに水をかければ、カッパも右手で自分たちに水をかける。

両手でかければ、カッパも両手で彼女たちに水をかけた。

三人(彼女と友達とカッパですね)で、楽しく水遊びし続けたそうです。

 

気が弱く、男の子にいじめられていた彼女。

翌日、学校で「昨日、カッパと遊んだ」と話した。

すると、いじめっ子どもが「自分もカッパに会いたい」と彼女と共に川についてきたのだそうです。

 

それ以来、その女性は折々にその川へカッパを探しに来た。

再び会えるのではないかという期待を抱いて。

しかし、カッパはそれきり現れることはなかった。

彼女がいじめっ子にいじめられることも止んだという。

 

「自分も80歳になってしまった。カッパさんも年を取ったのかも。」

 

川岸を歩きながらその女性はインタビューに答え、寂しそうに笑った。

 

あの日以来、カッパには再会できていない。

『カッパなんているわけない、あきらめよう』と思うそうだ。

それでもいまだに楽しかったあの夏を思い出し、思い出の川にカッパを探しに来てしまうのだとか。

 

ここで、現実的な(カッパを信じていない私の)勝手な分析。

もしかすると彼女がカッパと思ったのは、その川へ遊びに来ていた隣村の子どもだったのかもしれん。

(あるいは東京から夏休みに親せき宅へ遊びに来ていた子とか…)

 

でも、いい思い出だ。

カッパがいようといなかろうと。

カッパのおかげで?いじめられなくなったのは、彼女の人生で大きな心の支えになっただろう。

妖怪だが、友達だ。

 

面白かったのは、北海道のアイヌの方?のお話。

 

そのお兄さんは木彫りのおみやげ品を制作し、販売している。

お父さんが猫を飼っていたのだが、猫は父親にものすごくなついていたという。

お父さんが行くところどこへでもついて回り、片時も離れなかったらしい。

 

ある日。

お兄さんが部屋にいると、猫がやってきた。

 

「お父さん、どこへ行った?」

と猫が聞いてきた。

 

「知らない。その辺にいるでしょ。」

とお兄さんは答えた。

 

すると猫は、

「いいや、いないよ。」

という。

 

「自分で探したら?」

と猫に言ったところ、猫は返事した。

 

「おう(分かった)。」

そして猫は消えた。

 

ん?

一人になったお兄さんは、しばらくして我に返る。

「今、自分は猫と日本語で話してなかったっけ?」

 

気のせいか?

いや、確かにさっき、オヤジの猫は日本語をしゃべったぞ…。

(そして自分も疑問も持たず、猫に返事していた)

 

という体験談。

お兄さんも、いまだに腑に落ちていない様子。

猫が日本語をしゃべるわけがない(いや、日本語だけじゃなく英語でもヒンドゥ語でも)

でも、確かに猫は日本語をしゃべったんだよ。

 

ふーむ。

お兄さんの錯覚(幻聴)かもしれないのだが、これぞ妖怪?と思わなくもない。

 

実は似たような体験が私にもある。

以前飼っていた猫のぽん太がそんな感じだった。

 

もちろん、私はこのお兄さんのようにはっきりぽん太と「日本語でしゃべった」記憶はない。

しかし、日々の生活で「お腹空いた」とかその程度なら会話が通じていたと思う(複雑なことはもちろん伝えられなかった)。

 

飼っている動物と近しい関係にあると、種を超えて?お互いに何を言っているのか分かるのかもしれない。

犬や猫を飼っている人は、このお兄さんの体験談が理解できるだろう。

 

この話を番組で聞いた時、ちょっと納得した。

言語に頼らないコミュニケーションが異種間で出来た時とか、自分がメッセージを受け取ることが出来た時とかに、「妖怪が出現した」ってことになるんじゃないですかね。

 

印象的だった話もあった。

場所は、愛知県だかどこの県だったか忘れた。

人魚淵という、かつては深い水をたたえた場所があった。

そこには人魚が住んでいるという伝説があった。

 

その昔、雨が降らない年があった。

どの村でも水不足に苦しんだが、人魚淵のある村だけが水に困らなかった。

人間を助けるために、人魚たちがひそかに村へ水を運んだのだという。

 

番組でその話をした高齢男性。

子どもの頃、誤って人魚淵へ転落したことがあった。

水の底は深く、渦を巻いていて(たぶん湧き水?)、奥へ吸い込まれそうになったのだそう。

 

時が経ち、高度経済成長の時代。(高度経済成長期とは、1955年~1972年ごろだそうです)

雨が降らない年があり、村は再び水不足になった。

困ったその村の人々は、人魚淵から水を抜いた。

人魚が住めなくなると分かっていたが、自分たちが生きるためにはそうするしかなかった。

 

そして現在。

人魚が住んでいた人魚淵の水は濁った。

以前のような豊かな水はどこかへ行ってしまった。

そして、人魚たちも二度と人間を助けることは無くなった。

 

取り返しのつかないことをした。

それが、その番組で、人魚淵の伝説を語った高齢男性の後悔だった。

 

不思議な話ですよね。

1970年代ってそんな遠い昔じゃない。

 

村を助けてくれた人魚に、恩をあだで返す形になった人間たち。

「自分たちが助かるために、人魚を犠牲にするしかなかった」って…。

ここでいう「人魚」は、「自然」「環境」と言ってもいいのかもしれん。

 

本当に人魚が存在していたかどうかは、誰も目撃していないから分からない。

自然に対する尊敬や畏怖の対象として、「人魚」とその住処「人魚淵」が存在していたのかもしれない。

 

話は変わるが、我が家では母が墓参の計画を立てている。

母の出身地は岩手県だ。

 

残念ながら、私は岩手弁が全く理解できない。

岩手ネイティブのはずの母も関東生活が長くなり、現地の人の話を全然理解できなくなっている。

 

言葉が分からないって、旅先で相当苦戦を強いられるのだ。

岩手でタクシーに乗ったりバスを待ったりする。

タクシー運転手の方やバス運転手の方、地元の方々が話しかけてくるのだが、これがさっぱり分からない。

 

何度も聞き返すのも失礼ですよね。

3回くらい聞き返しても理解できないときは、分からないけれど分かったふりをしている。

 

岩手で、駅へ行くバスの到着時間になってもバスが来ない、なんてことがあった。

バス停で待っている他の乗客が「◎◎で××だ」と教えてくれるのだが、ほとんど理解できない。

(多分、遅延の理由を説明してくださっているのだろうと推測)。

 

バスが来るのか来ないのか不安を抱えたまま、運を天に任せるしかない。

こういう「自力でどうにもならない」感じ、普段の生活ではなかなか無い。

 

今はどこの国も英語が通じる場面が多いので、海外ならたいていどうにかなる。

むしろ海外旅行の方が、岩手旅行よりよほどハードルが低い。

 

岩手の片田舎でバスが来ず、「マジで帰宅できるんだろうか」と不安になるとき。

私なぞ必死でバス停の周りを見回し(何もないが)、言語に頼らず非言語の情報から相手の意図をくみ取ろうとする(地元の方の表情とか口調とか)。

こうやって普段の生活で使っていない第六感をフル活用し、無事に関東へ帰ろうとする。

無事に新幹線に乗り、周囲の人の話す内容が分かると、どっと安心感が出てくるのである。

 

でも、「言葉がまったく理解できない環境」も、たまには悪くない。

人間は、「自分の力で何でもコントロールできる」状況に慣れ過ぎているのかも。

自分の力を超えた環境に置かれると不安になるが、そうなったら謙虚に状況を受け止めるしかない。

非言語コミュニケーションの重要性を認識する良い機会なんだと思う、夏って。