オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

漢字百話

 

またまた読書感想文で申し訳ありません。

夏休みの宿題のごとく、年中書いてます、感想文。

今回は、漢字についての本。

 

この「漢字百話」は、漢字の大家・白川静博士の著書である。(中央公論社)。

白川先生によれば、「漢字とは『呪(しゅ)』である」。

 

呪い?怖っ。

と誤解されないよう、説明してみたい。

 

もともと漢字は、人間社会の儀礼や神話の書記法から成立した。

んだそうだ。

 

古代中国の人々は自然を畏れ、神を敬い、龍やら何やらの霊を使って邪気を払い、悪い物が来ないように祈りながら生活していた。

超自然的力に働きかけるための行為、それが祈りや呪術、儀礼だった。

 

(ここでいう呪(しゅ)とは、相手を呪い殺すことじゃないです。

予測不可能な自然現象から身を守り、自分や村の安全や平和を願う行為って感じ?)

 

例えば、人々は自然現象や自分たちの理解に及ばないものごとを、神とあがめていた。

それを絵に描く。

自分たちに不幸が訪れないよう、祈ったり祓ったり神の言葉を伝え聞いたりする必要がある。

その行為を絵に描く。

 

それらの絵は意味が与えられ、行為や物事を表す文字となっていった。

形も、最初に描かれたような図や絵ではなく、そこから形がだんだん整えられ、書きやすくなった。

 

つまり。

「漢字とは単なる絵画や模写ではない」by白川先生。

 

よく、日本の小学校では漢字の成り立ちを教えるときに絵を使う。

「男」という字は、田んぼで力を使って働く人だ、とか、ああいうヤツである。(私もそうやって覚えたが)。

しかしこれは間違い。

 

実物を模写して漢字を作ったら、実物のある物体しか文字に出来ないので、すぐに行き詰ってしまう。

社会の中の抽象的な行為に文字を創作することは出来ないですよね。

 

人類は、想像上の現象や神事などの行為にも絵を描き、意味を与えた。

それらを図や形で表していたものが、今の漢字の基礎になった。

 

ということらしいです。

 

「呪術」(または呪(しゅ))という行為が当時の社会に無ければ。

朝起きてご飯を食べて夜寝る、だけの生活であれば。

祈りもなく、願いもなく、人知を上回る自然と相対する必要もなく、異民族との戦いもなければ。

漢字というものは永遠に地球上に現れなかっただろう。

 

こういう背景が分かると、漢字には当時の人々の願いや祈りが込められていることが分かる。

単なる自然の模写ではないのだ。

 

ところで、スペイン語やフランス語、イタリア語を勉強した方なら一度は思ったことがあるのではないだろうか。

「(それらの言語のもとである)ラテン語を勉強してみたいなあ」と。

「漢字百話」を読んでいると、スペイン語学習者がラテン語を探索しているような、そんな感覚に襲われる。

日本語のもとを知りたい、という欲を満たしてくれる本である。

 

この本を通して白川教授が言いたかったこと。

(と勝手に私が意訳?想像?させていただく)

 

漢字とは「男という字は、田んぼで働く力」という説明に代表されるような、単純模写的な成立方法ではない、という点がまず挙げられる。

(こういう教え方は、「成績不振児に教えるために」教師が覚えやすい方法を編み出したみたいですね)

 

漢字の成立した背景には、当時の人々の祈りや畏れ、邪気を払い幸せになりたいという思いがある。

そういったものをひっくるめて、漢字の背景は「呪(しゅ)」と言うわけだ。

白川先生いわく、漢字とは「神聖文字」であり、「古代文字」なのだ。

 

2点目は、漢字の置かれた現況。

白川教授の皮肉というか、嘆き節がちょっと聞こえてくる。

例えば中国。

 

科挙(公務員試験)が隋・唐の時代に導入され、試験科目に漢字が出題されるようになった。

だんだん漢字は形を整えられ、社会の変化に伴って新しい漢字が生まれていった。

革命後の中国では文字を簡単に書くための簡体字が作られたが、これはただの記号。

簡略化しすぎて、漢字がもともと持っていた意味が逆に分からなくなってしまった。

もったいない。

 

(ところで、台湾は繁体字を使っている。

中国は「台湾はうんぬんかんぬん」と批判するが、案外台湾の方が正統的中国文化の継承者かもしれない?)

 

例えば韓国。

漢字を廃止したが、韓語の多くは漢語から出来た。

ハングルは音しか持たない記号だ。

意味と文字が切り離された例で、これも残念。(←やっぱり漢字ラブ💛の研究者ですね)

 

例えば日本。

日本でも多くの漢字が発明され、当用漢字表なんて代物が出来、形も意味も失った記号が量産された。

漢字の「形の統一」を図る理由は私にもわからんが、勉強が楽になるようにとか、そんなことですかね。

 

「勉強のできない子でも分かるように」

「難しい漢字は教えず、簡単に」

 

と、学校で教える内容がどんどん平易になって行き過ぎた感じがする。

漢字のもともとの意味を知らない教育者が多くなった。

 

そういう人たちが勝手に?漢字の形を変え、「整理し」、これだけ勉強すればいいんじゃい、と当用漢字表を作った。

漢字成立時の古代人の生活や息吹は消え、意味が薄れた記号が教科書に掲載されるようになった。

というのが、白川先生の嘆きだ。

 

論語とか普通に勉強していた明治生まれの白川教授が嘆く気持ちも分からんではない。

現代人がいかにアホ化したことか。

私なんか手で字を書くことが少なくなり、パソコンやスマホに頼ってばかりいる。

ふだん漢字を書かないので、「あ~あの漢字、どうやって書くんだっけ?」という状態に陥っている。

スミマセン…。

 

ところで。

個人的に私が面白いと思ったのは、漢字の成り立ちだけではない。

昔の日本人が、どのように漢字を日本文化へ「輸入」していったのか、という点も面白い。

 

漢委奴国王に金印が与えられた時代には、日本人は大陸に「文字」というものがある、ということを知っていたようだ。

4世紀後半の書法を見ると、漢字が間違っていたり左向きだったり。

古代日本人にとって慣れない漢字で日本語を表記するのは、今の小学生のごとく難しかったわけですね…。

 

しかし、この時代に生きてみたかったぞ。

漢字を輸入して日本文化に取り入れる、ってことを私も体験してみたかった!

もっと言うと、古代中国に生まれて漢字を作ってみたかったなあ~。

 

なんとか日本人は頑張って、隣国・中国が発明した文字を習得した。

万葉集の時代には、漢文和読がかなり上達していた。

中国語と文法が違うのに、よくも漢字を日本文化に取り入れたものだと感心する。

漢字の意味だけでなく、音(おん)も輸入したのだから大したものだ。

 

柿本人麻呂作の歌。

「東野炎(ひむかしののにかぎろひの)立所見而(たつみえて)反見為者(かえりみすれば)月西渡(つきかたぶきぬ)」

 

「つきかたぶきぬ(月傾きぬ)」なんて、「月が西に渡る」と書いてそう読ませているんですね。

意訳というか、あっぱれ工夫したものだ。

この辺まで来ると、あとは漢字を覚えた日本人が自分の表現したいことを自由に表現するようになっていく。

 

白川先生の絶賛は「山上憶良」だ。

彼の作品は「貧窮問答歌」が有名だ。

 

「かまどには火もなく、コメを炊くこともなく…鳥ではないので飛んで逃げることも出来ない」

という自分の極貧生活を詠んだ歌だ。

 

憶良作品は当時としては型破りな形式、ありがちな枕詞や慣用句の拒否、自分で作った用語などが満載。

いわゆる正統派文学作品ではないし、傑作ではない。

でも、他国から輸入した文字を駆使し、ありきたりの文学的手法を使わずに表現したいことを表現した、という点で評価できる、という。

 

しかし…こういう文学的チャレンジをした表現者ほど、評価されないのか~。

山上憶良と友達になりたかったな。

 

文字が日本に輸入されたからこそ、自分の意見や気持ちを誰かに文章で伝える楽しみも生まれたわけだ。

それを読む楽しみもね。

ブログやツイッター、メールや手紙、小説や新聞、教科書、ありとあらゆるメディアは文字あってこそ存在する。

漢字を発明した人々に感謝。

 

「漢字百話」はちょっと古い本なので、書店には置いてないと思う。

なので、さほど文字に興味のない人はわざわざこの本を探して読むことはないだろう。

漢字の成り立ちは「田んぼで働く力が男…」みたいな実物模写でないことだけ、読者の皆さんに知っていただければ嬉しい。

また、この本は「漢字研究の入り口」的本なので、興味のある方は白川教授の別の本を読まれることをお勧めしたい。

 

最後に、漢字は「呪」(しゅ)である、の一例を挙げる。

 

「沈」という字がある。

左のさんずいは水を表すが、右の作りは「牛」だった。

渡河する際に、無事渡れますようにとの祈りを込めて、神へのいけにえとして牛を投じたのだとか。

今後は私も、川を見るたびにかわいそうな牛を思い出すかもしれない。

 

人間の営みの上に生まれた漢字。

古代日本人が苦労して漢字を学び、明治時代の日本人が苦労して外国語を日本語へ翻訳した。

そういう過去の人たちの努力があって、今の私たちの日本文明がある。

そう考えると、すごく貴重な文化遺産を毎日使っているんだな、と思う。

 

 

戦争は女の顔をしていない

 

最近、本の感想についての記事が多くてスミマセン。

面白い本を読むと、ついつい誰かに伝えたくなってしまうのだ。

 

「戦争は女の顔をしていない」

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著。岩波書店

この本の感想は一口には言い難い。

 

何かのブックレビューで、この書名を知った。

それ以来、気になっていた本の一つ。

漫画化もされているので、このブログを読んでくださっている方の多くは読んでいる方もいるだろう。

 

2015年に、著者はノーベル文学賞を受賞している。(日本での本書発売は2016年)。

今年の3月から世界情勢が変わり、ますます読むのに時宜を得たという感もある。

 

この本は、ソ連(当時)から対独戦に従軍した女性たちの体験談を500人から集めたものだ。

戦争体験は男性の口から語られるものが多い、ということに疑問を感じた著者が、女性従軍経験者から聞き取りをしたもの。

 

体験を話してくれた彼女たちは、独ソ戦へ出征当時、15歳~30歳だった。

職業軍人ではなく、普通の一般市民だった。

参戦した女性は200万人に上るという。

 

若い女性たちはどう戦ったのか。

 

他国でも女性が従軍することはある。

たいていは軍医とか看護師、衛生兵としてが多い。

女性が軍隊内で出来る仕事といえば、そういう仕事しかないと私も思っていた。

 

「戦争は―」のインタビューに答えた女性の中には、もちろん軍医や看護師、通信兵や料理係もいた。

しかし彼女たちの多くは、狙撃兵とか機関銃兵、指揮官など「実際に人を殺す要員」だった。

 

どうして女性が従軍したのか?

本を読むと分かる。

 

例えば、娘ばかり4人も持っていた父親を喜ばせるため。

女性は役に立たないと思われるのが嫌だったため。

村の中での親のメンツを保つため出征したケースもある。

「祖国を守るため。」

 

従軍中も「女性であること」のハンデはある。

「女は役立たず」と男性に言われたくないため、重い機関銃を肩に担いでも泣き言は言えない。

従軍中の4年間、男性用下着しか支給されず、戦争が終わって初めて女性用ブラジャーとパンツを支給されたという。

 

中高生の時に出征したので、従軍中に初潮を迎えた女の子もいた。

女性兵士たちが行軍した後の砂には、点々と赤いしみが出来ている。

生理用品など支給されないからだ。

女性であることを隠して戦う人もいた。

 

彼女たちは、男性たち以上に戦うしかなかった。

男性に劣らないことを証明するために。

男性たちからバカにされないように。

戦争は、女性が女性でいられない場所なのだ。

 

じゃあ戦争は男性がやるものなのか?

そうとは言わないが、少なくても戦争は「女性」の顔をしていない。

とこの本を読むと思う。

 

泥の中に転がっている死体。

三つ編みのおさげ髪を見て、女性兵士の死体だと分かる。

殺し合いとなったら、男女関係ない。

 

読んでいると気が滅入るが、過酷な戦争体験を話してくれた500名の女性たちの勇気には感服する。

長い時間をかけて彼女たちと連絡を取り、一人ずつに面会して丁寧に記録を残した著者にも感謝だ。

 

印象に残ったこんな場面がある。

負傷した自国の兵士(ロシア兵)とドイツ兵(敵国兵士ですね)が病室にいるシーン。

 

自分(女性兵士)が「体調はどうか」と味方の負傷兵士に尋ねる。

すると、味方の兵士が答える。

「自分はいいから、コイツ(ドイツ兵)を見てやってくれ」

 

戦場では敵同士だが、負傷して病室に隣同士で横たわっているとただの人間同士だ。

負傷した二人の間には、人間的なものが芽生えていた。

そんなこともある。

 

従軍した女性たちは日々凄惨な経験をしているが、女性らしく過ごしたいと思うこともある。

松ぼっくりを髪に当ててカーラーの代わりにしたり、前髪をピシッと整えるために砂糖を使わずに取って置いたり。(多分砂糖をお湯に溶いて、それを髪につけて固めるんでしょうね)

イヤリングをつけたら上司から「そんなもの取れ!」と怒られたり。

そういう人間的な描写があると、読んでいるこちらもちょっとホッとする。

 

そして戦争が終わる。

 

復員した男性たちは、村や町の英雄。

足や腕を失っても、「祖国のために頑張った」ともてはやされ、結婚相手も見つかる。

 

しかし、復員した女性たちは社会から逆の扱いを受けた。

「戦争になんて行く女は、ろくな人間ではない」

「戦争に行って何をしてきたんだか」

 

結婚相手だって見つからないし、結婚しても「戦場へ行った女はやはりダメだ」と夫が去った人もいた。

戦争から戻ってきたら、生理が止まった女性もいた。

妊娠できなくなった人もいた。

それだけ精神的トラウマが強かったということなんだろう。

戦争が終われば美しい人生が始まる、と思っていたのに。

 

インタビューに答えた500人一人一人に、こんな物語がある。

 

「私は2つの人生を生きた。

男性の人生と、女性の人生と。」

そう語る女性もいる。

 

「(戦場での自分は)あれは自分ではない。他の誰かだった。」

そう振り返る女性もいる。

(これは多分男性でも同じかも)。

 

「子どもに戦争の話をしても、(自分に関係ない)おとぎ話だと思っている。」

それは分かる。

私も従軍経験が無いので、こんな貴重な体験談を読んでも自分ごととは思いにくい。

 

「私は罰を受けている。どうして?人を殺したから?」

重い質問だ。

 

戦争中は「女も従軍しろ」「祖国の役に立て」と言われた。

が、戦争が終わると手のひらを返したように扱われる。

彼女たちは、戦争前は中学校や高校に通う普通の女の子だったのに。

 

日本でも、第二次大戦中は普通の人々が戦争に徴兵された。

そして、戦争が終わると「戦争は悪いことだ」ということになった。

 

本当に悪いのは戦争を起こした政府であって、一般市民ではない。

しかし、肩身の狭い思いをし、一生涯苦しむのは一般市民だ。

それは世界どこでも同じなんだろう。

 

ソ連は第二次大戦に参戦し、4年間の戦争で2,000万人の犠牲者を出した。

日本の死者は230万人と言われている。

(ちなみにソ連の敵国であったドイツは280万人。

本書でもドイツ兵のみならずドイツ女性が凌辱される場面や殺される場面が出てくる)

 

ところで、なぜソ連だけが第二次大戦の死者数が突出しているか、という疑問である。

 

調べたところ、ソ連人海戦術だったので犠牲者数が多いのだそうです。

兵器のレベルや戦車・大砲の数で勝るドイツにソ連が勝つためには、兵士の数を投入しなければならない。

 

そういう事情から、ロシア語の分からない人や辺境出身者ですら前線に送られたらしい。

第二次大戦で、女性が大砲を打ったり狙撃したり戦闘機に搭乗したりしていたのはソ連だけだったようです。

(じゃないと2,000万人も戦争に投じることはできないですよね)

 

そのソ連(いや、今はロシアか)が、また戦争か…。

この本にも何度も出てくる。

ウクライナが戦場になっている場面が。

 

もう一つ、印象的な場面があった。

春の麦畑。

味方(つまりソ連)の若い兵士と、ドイツ兵士の遺体が転がっている。

青々とした麦畑に転がる、2つの死体。

 

死体の目は開かれて、青い空を見上げている。

どちらも、もう人種や国籍なんて関係ない。

ただの人間だ。

 

こんな場面もあった。

モスクワまで退却した女性兵士たち。

男性の連隊長が美容師を呼んでくれた。

 

「戦争はすぐに終わらないから」女性兵士たちの気分転換になるようにとの心遣い。

マスカラをつけ、眉毛を描いて、化粧もした。

うれしかった…。

という。

こういう戦時中の人間的描写にはホッとさせられる。

 

ウクライナの戦争が長引くにつれ、私の周りにも「まだウクライナ?」という雰囲気が無くもない。

欧米が近代兵器をウクライナに支援している。

ロシアはまた終わりのない戦いに総力戦で挑んでいるんだろうか。

 

本書で、自分の従軍体験記を語ってくれた女性たち。

今も存命の方も多いと思う。

彼女たちは、今のウクライナ戦争をどう思っているのだろう。

 

感想をうまくまとめられなくてスミマセン。

戦争体験の無い私が、何を論評する?って気持ちもある。

「国を守るために戦え」と言われて銃を取った女性たちを、誰が責められるだろうか。

一つの事実、ある一個人の体験として、事実を謙虚に受け取るしかない。

 

私が願うのは、この本に登場したような女性が再び現れないで済む世の中だ。

世界中の人が、安全な場所で今夜もお腹いっぱいで幸せに眠れますように。

誰もがうれしかった、楽しかったという日々を送れるようになりますように。

女性が着飾ったり、マスカラを試したり、新しいサンダルを履いてウキウキしたりする世界でありますように。

 

罰を与えられなければならない人なんかいないのだ。

早く戦争が終わりますように。

それしかない。

 

 

ヘアカット

 

髪型について、こんな思い出がある。

 

2歳年上の姉は、常にロングヘア。

私たちが幼稚園の頃は、母が姉の髪を三つ編みに毎朝編んでいた。

私はそれがうらやましかった。

 

「私も髪を伸ばしたい!」

 

そういうと、母はいつも首を振った。

 

「2人も毎朝三つ編みにしなきゃならないなんて、面倒くさい。」

「朝は忙しいんだから、そんなのやってられない。」

「あんたはショートでいいの。我慢しなさい」

 

なぜなんだ。

姉は「三つ編みは嫌だ」と泣く。

私はロングにしたい。

だったら姉をショートに、私をロングにすればいいじゃないか。(名案)

 

しかし、母はがんとして私の提案を受け付けなかった。

 

姉は何をするにもおっとり、のろのろ。

それが「女の子らしい」と両親は思っていたようだ。

だから長女はロングヘアにすべし。

 

逆に私はおてんばで、やることなすこと早い。

パキパキしているので「男の子っぽい。」

だから次女はショートにすべし。

 

姉=女性らしい=ロングヘア。

妹(私だ)=男っぽい(偏見だが…)=ショートヘア。

という両親の考えは長年変わらなかった。

 

親の厳命で、私は高校までロングヘア禁止だった。

なので、ボブで妥協していた。

 

大学生になり、アメリカへ。

お金がなかったし、美容院で英語でオーダーするのが面倒だったのもある。

「ロング禁止」という親もいないので、髪を伸ばし始めた。

ところが。

 

ボブヘアに慣れたせいか、ロングヘアにするとどうも首筋がうっとうしくてたまらん。

結局、ボブヘアに戻った。

 

ボブのまま卒業し、就職し、働いていたある日。

 

先輩社員のYさんが結婚した。

彼女は私より6、7歳年上だ。

彼女の新居へ、同僚たち数人で遊びに行った。

 

駅で待ち合わせしたのだが、現れたYさんを見て驚いた。

何と、ボブをバッサリ切ってベリーショートになっていたのだ。

 

驚く我々に、Yさんは笑いながら言った。

「1,000円カットに行って、『大阪のおばさんみたいにしてください』って言ってやってもらったの。」

 

大阪のおばさん…。

いい得て妙だ。

(すみません、大阪のおばさまには大変失礼と思いますが)

言われてみれば、いや言われなくても『大阪でよく見かけそうなおばさん』だ。

思い切ったな。

 

Yさんいわく、主婦になって自分が自由に使える収入が無くなった。

マクドナルドでバイトを始めたが、会社員時代とは比べ物にならない。

美容院代を浮かそうと思って、ベリーショートにした。

ということだった。

 

旦那さんは驚いたでしょ?と尋ねると、Yさんは苦笑した。

「高校球児みたいだね!だって。それだけ。」

 

良い旦那さんだ。

まあ、髪型を変えたからって、愛は変わらないですよね。

 

すごいな、いつも私の先を行っているな、Yさん。

とその時は思った。

しかし、さすがに「大阪のおばさん」カットをやる勇気は無かった(だってロングに憧れてたからね)。

 

それから何年か経ち、常夏のインドネシアに赴任。

インドネシアの年間平均気温は25度~35度。

ボブでも十分暑い。

 

行きつけの美容院の日本人美容師さんに何度も頼んだ。

「暑いんで、短くしたいです。」

 

ところが、美容師さんは難しい顔をして言う。

「いや~ボブのままがいいと思いますよ。」

 

ボブだと汗だらだらで暑いんだよ。

もっと涼しいヘアスタイルにしたい、って頼んでるんじゃん…。

その時、Yさんのことを思い出した。

 

ある日、美容師さんに宣言した。

「ショートにしてください。」

美容師さんは驚いた。

ボブのままがいいとか、ショートは似合わないかもとか、頭の形が悪いとか、さんざん私をなだめすかした。

 

でもねえ。

チャレンジせずして、どうして「ダメだ」と思うのだ?

いいから、切れ。(←えらそう)

 

横も後ろも短くした。

「大阪のおばさん」よりは若干長い、くらいになった。

おお。

案外、似合っているじゃん。

 

美容師さんも鏡の中の私を見て、ビックリしたようだった。

「似合いますねえ!」

うん、私も想定外。

よしよし。

 

家に帰って再度鏡を見た。

しかし、ショートにしたら多少は女性らしくしないといけないな。

明日は大きめのイヤリングと、普段は付けない口紅をつけて出勤だ。

 

そして、翌朝。

会社が入っているビルの入り口(ビルの入り口に警備員さんがいる)から中へ入ろうとした。

すると、インドネシア人の警備員さんに止められた。

 

「ミスター!」

 

振り向く私。

内心、ちょっと腹が立つ。

 

(髪を短くしたからって、私の顔が分からんとはどういう警備員だ。

それに、「ミスター」じゃないんだよ。

女だよ、女!)

 

インドネシア人の警備員は続けた。

 

「ミスター、おはようございます」

 

あのなあ。

英語では呼びかけに「ミスター」は使わないんだよ。

見知らぬ男性に呼びかけるときは、たいていSirだ。

 

っていうか、問題はそこじゃない。

私はスカートをはいてるじゃねえか!

男じゃないんだっつの。(←ガラ悪し)

 

男性に間違われることを避けるため、翌々日も大ぶりのイヤリングを着用してスカートで出勤。

こんな目立つイヤリングをつけていたら、さすがに男性と思われないよね。

 

と思ったら、今度はビルの入り口で女性警備員が私に話しかけてきた。

 

「ミスター、今朝はエレベーターのメンテナンスをやってまして、あちら側をご利用ください。」

 

…。

ミスターじゃないんだよ、と言いたいのをこらえて、あちら側に回る。

くそっ。

 

スカートはいてても「ミスター」かい!

ショートにしただけで男扱いされることに愕然とする。

しかしここで「私は女なんですけど」って騒ぎ立てるのは、もっと恥ずかしいですよね?

 

ここで、読者の皆さんへお伝えしたい。

インドネシア人が悪いのではない。

彼らは英語圏の人間ではないのだ。

留学したわけでもないのに、一生懸命外国人に英語で果敢に話しかけてくれる、大したやつらなんである。

 

私がモヤってる理由は、Sirじゃなく「ミスター」と間違った英語で呼ばれることではない。

イヤリングをつけて口紅を引いても「男性」と思われることなのだ。(←自分のせい)

それくらい、「男顔」ってこった。

くそ~~~~~~!!!!

 

ま、インドネシアはオカマさんも結構いらっしゃるので、間違われるのも仕方ない。(←どういう着地だ)

 

しかし、やってみると楽なんである、ショートが。

インドネシア勤務を終え、日本へ帰国した後もなんとなくショートを続けている。

 

ロングヘアの同僚のSさんが言っていた。

「ロングにしておくと、美容院へ何か月も行かなくて済むから安上がりなんだよね。」

そういうやり方もあるか…。

 

というわけで。

ロングとショート、どちらが安上がりとか、どちらがメンテ楽なのかは一概に言い難い。

しかし、私のように、子どもの頃にショートだった人がロングにするのは案外難しい気がする。

逆は楽だけどね。

 

毎朝三つ編みにされて泣いていた姉も、今ではボブにしている。

理由は「楽だから」。

そうだよね、それに尽きる。

 

ところで、ショートの髪が伸び始めた私。

これから秋だし。

せめて髪を伸ばして女性らしくしようかな。

 

いや、中身が女性なのになぜわざわざ「女性らしく」しようとする必要がある?

必死に「女性はこうあるべき」という社会からのジェンダーの偏見に抵抗している感じ?

 

(ショートにする→男性に間違われる→女性と思われたい→髪の手入れは楽な方がいい→ショートにする、をぐるぐる回ってるだけじゃん!)

 

ああ、また理屈っぽくなってしまった!

 

ま、オカマさんと思われてもどうでもいいや。

という気持ちになり始めている。

Yさんのように自分軸をちゃんと持っていれば、周囲にどう思われてもいいのだ。

と思えるハートの強さ、欲しいです。

 

 

 

グリーンマイル

 

スティーブン・キング

大作家である。

 

知らない人はいないだろう。

彼の多くの作品が映画化されているし。

 

スティーブン・キングの小説をもとにした映画なら、私も見たことがある。

でも、小説そのものは読んだことが無かった。

 

キング作品と私の出会いは、私のアメリカ留学時代にさかのぼる。

アメリカ人の同級生が、スティーブン・キングのファンだったのだ。

 

「面白いから読んでみて!」

と彼女からほぼ無理やり?キングの小説を押し付けられた。

 

ファンは、推しの作家の小説本を「頼みもしないのに」貸してくれることが多い。

「ね、面白いでしょ?」と、沼に引き込むもくろみなんだろう。

日本でもアメリカでも同じですね。

 

で、肝心のスティーブン・キング作品だ。

何の小説を借りたか忘れてしまった。

当然だが英語なので、2ページ目くらいで挫折。

 

当時の私は、英文を読むのがめちゃくちゃ遅かった。

大学の授業で出された宿題や教科書を読むのすら、辞書を引きながら四苦八苦。

英語で書かれた小説なんて、読む暇があるわけない。

 

しかし、そんな中。

大学で知り合った、とある先輩学生A君(アメリカ人)と話していた時。

 

趣味を聞かれ、適当に「本好き」と答えた。

するとA君は喜んだ。

自分も読書が大好きなのだという。

 

「最近、何かの本を読んだ?」

と聞かれた。

 

「ま、まあ、うん。」

私はあいまいに答えた。

すると、「同じ趣味の仲間同士」話が出来ると勘違いしたらしく、A君は身を乗り出してきた。

 

「ホント?どの作家の本を読んだの?」

 

私は苦し紛れに答えた。

 

「その…えっと、友達から借りたスティーブン・キングの…。」

(2ページしか読んでいないが…)。

 

ところが、彼はスティーブン・キングの大ファンだったのである。

 

「ええっ?スティーブン・キング?」

「ホント?わあ、日本人もキングを読むんだ!!」

「僕はたいていのキングの小説は読破してるんだ!」

「何の本?」

「どんな感想を持った?」

 

矢継ぎ早に聞かれて私は返答に窮した。

「その…えっと…まだ読み始めたばかりで」

 

彼が急速にしぼんでいくのが分かった。

ごめんよ…留学生にとっては、英語の授業について行くのだって必死なんだからさ。

英語の小説を読む、精神的余裕も時間的ゆとりもないんだよ。

 

くそお。

A君がスティーブン・キングのファンでなければ、適当に「面白かったよ」なんてごまかそうと思ったのだが。

うまく行かないものだ。

 

そんな苦い?思い出があったので、キング作品から足が遠のいていたのである。

でも、映画は結構見ましたよ。

スタンド・バイ・ミー」とか「ショーシャンクの空に」とか。

ホラー系は苦手なんですけど。

 

そして年月が経った。

映画化された作品のラインナップを見て分かった。

スティーブン・キング作品は2種類に分かれるわけだ。

ホラー系とヒューマンドラマ系。

 

前者はあいにく得意ではない。

しかし、後者のジャンルの小説なら読みたいとずっと思っていた。

 

一冊くらいは読みたいなあと思っていたところ、図書館で発見した「グリーンマイル」。

これがぺらっぺらの薄さの文庫本であったのである。(注:新潮文庫です)

 

速攻、借りる。

なんだか最近、「リベンジ読書」が多いなあ。

 

読み終えて分かった。

これはシリーズものだ。

つまり、次の本を借りないと、何の話やら全く分からんのである。

一話完結かと期待していたら、違っていた。(借りる前に確認しろよ…)

 

小説の後の解説を読むと、「グリーンマイル 1」には多くの伏線が張られているという。

これら伏線が「2」以降で次々に回収されるんだそうだ。

 

く~っ!

やっぱり、「2」以降を読まにゃあいかんではないか!

「薄いぞ!」と喜んではいけなかったのだ。

 

というわけで、「1」だけ読んでも何の感想も書けないのだが、こうやって記事を書いている。

じゃあ何が面白かったのかというと、小説の前書きだ。

 

キングは饒舌な小説家のイメージがある。

前書きで、「なぜこのようなシリーズ形式になったか」の顛末を説明してくれている。

「饒舌作家」の期待にたがわず、そこだけ読んでも楽しめるのだ。

 

こんな場面もある。

キング氏が12歳の時。

お母様がアガサ・クリスティのミステリー小説を読んでいるところを目撃した。

私も小学生の時はハマったぞ、クリスティ。

 

で、彼のお母様。

まだ最初の50ページくらいしか読んでいないのに、小説の結末を知るために最後の部分だけ先に読んでいたという。

読みかけのところに、しおり代わりに指を挟みこんで。

うん、私もよくやるよ、これ。

 

ミステリーでは、最初に事件が起きる。

怪しい登場人物が次々に現れ、第二の殺人が起き、探偵が登場。

自分も推理しながら読むが、読み進める前に結末が気になる。

…ってのは、日本人であれアメリカ人であれ同じようだ。

 

「たまに誘惑に抵抗できなくなるのよ」

 

とは、ミステリーの結末を先に読んでいたところを息子に見つかった、キング氏のお母様の弁。

私なんて、たまにどころかいつも誘惑に負けている。

 

そしてこの「グリーンマイル」だ。

読者は「2」以降を読まないと小説の全体像すら分からない。

つまり、「1」を読んだだけでは消化不良だ。

スティーブン・キングのお母様や私のように「先を知りたい」読者にとっては、もどかしさが残る。

 

この、「次を読みたくなる感じ」はさすがスティーブン・キングだ。

しかし、一冊ずつ借りるとまた「先を知りたい」と、消化不良になること間違いない。

 

うーん、最後まで読み通したい。

残る全巻いっぺんに借りないと気が済まないなあ。

 

あ~頼むから全巻まとめて分厚い一冊にしてくれ!

百年の孤独」も「吉里吉里人」も本は分厚いが、面白かったからあっさり読めたぞ!

 

それとも、今後はキング氏の作品で分厚い一冊本を借りようかな。

それなら確実に「一冊一話完結」だろうし。

 

やっぱり最初からそうしておけばよかったのだ。

薄い本狙いはいかん。(すいません)

 

まあ、なんとなく予想がつく。

私もスティーブン・キングのファンになりそうなことが。

話が面白いからこれだけ映画化されるんですよね。

 

どうでもいいが、長年の私の夢。

『自分一人が住む自分の家を建て、朝から晩まで誰にも邪魔されずに本を読む』。

 

早朝に誰かがわさわさ起きて、自分の安眠を邪魔されることもない。

誰かの食事の支度をする必要もないし、24時間自分の好きなように時間を使える。

夢のまた夢だが、妄想するだけで楽しい。

 

そんな夢のような?環境になったら、そりゃ家にこもって本を読みまっせ。

シリーズ本も山積みにし、お菓子を食べながら、好きなだけ読むのだ。

 

夢はなかなか実現されないまま、何年も過ぎている。

狭い家に置き切れないので、定期的に本を処分(しかしまた買ってしまう)。

あ~好き放題本が読める身分になりたいものだ。

 

とは思うものの、たぶん今生にはそんなチャンスが巡ってきそうにもない。

生まれ変わったらの楽しみにとっておこう、と思っている。

 

あ、でも次回生まれ変わったら「お金持ちのマダムの飼い猫」になるという夢もあるんだった。

読書三昧か、猫になって終日ゴロゴロするか。

どちらの夢も捨てがたい。

 

 

 

 

ラテマネー

 

「いかにしてお金を貯めるか」

というのは、全世界、全人類共通の普遍的テーマだ。

 

私も倹約をしなくてはと思っているのだが、ついつい忘れがち。

たま~に、

「はっ!そうだ!お金を貯めなくては!」

と思い出す、といった具合だ。

 

先日、「ラテマネー」という単語を知った。

読者の皆さんも耳にしたことがあるかもしれない。

たぶん、こんな文脈で。

 

「毎日出勤時に買うカフェラテも、積もり積もればそれなりの金額を支払っていることになる。

なので、毎朝のカフェラテを買わない(あるいは買う頻度を減らす)だけで節約になる。」

 

つまり、ラテマネーとは、カフェラテに毎日費やしている少額のお金のことである。

少額と言えど「ちりつも」で、ロングランでは結構な額になるはず。

 

誰か、私の出勤を物陰から見ていたんだろうか?

私は、まさに「毎朝出勤時にカフェラテを買う」人間なのである。

(厳密に言うと「ブラックコーヒーにミルクを入れ」ているんだが…)

 

通勤途中にコンビニFがある。

コーヒーを購入すると、「コーヒーカード」にスタンプが押される。

スタンプが一杯になったら、アイスかホットのコーヒーSサイズが無料になる。

これを目当てにせっせと買っている。(←思いっきりお店のカモになっている)

 

もし仮に「うわ、電車に間に合わない!」と駅まで走り、Fに立ち寄ることが出来なくても心配無用だ。

職場の近くにはコンビニSがある。

ここのコーヒーは美味しいので、ここで購入することもある。

 

たまに専門店で買うこともあるが、たいていコンビニだ。

コンビニのコーヒーは専門店で買うよりははるかに安いから、ま、大した金額じゃないだろう。

 

しかし、「ラテマネー」という言葉を耳にしてから気になる。

一体私はカフェラテ(カフェラテじゃないが…)にいくら使っているんだろう。

家計簿(一応つけている)で調べてみる。

 

う!                                                                                                                                       

私は一か月あたり、なんと◎◎円もコーヒーに費やしている!(←恥ずかしくてここに書けない)

 

敗因。

たくさんある。

コーヒーついでにおいしそうなパンを買った、みたいな「ついで買い」も結構ある。

 

だめじゃん。

典型的な「ラテマネーでお金が貯まらない人」じゃん。

 

というわけで、朝にコーヒーを買うのをやめてみた。

しばらくして家計簿を見直すと、確かに節約効果がある。

 

しかし、何かが足りない。

仕事前にコーヒーを飲むのが習慣なので、朝にコーヒーを飲まないと仕事に取りかかれないのだ。

どうしたらいいんだ。

 

お昼休憩にお弁当を食べながら、この「ラテマネー」をめぐる自助努力を同僚たちに話した。

なんとか「ラテマネー」を圧縮して倹約したいんだけどね、という話をした。

すると、同僚たちは誰しもが何らかの貯金術に挑戦していることが分かった。

 

同僚のAさんは「週のうち、1日は全くお金を使わない日」を設けているのだという。

つまり、月に4日は「お金を使わない」ようにしているのだそうだ。

 

おお。

いいことを聞いた。

その倹約術、やってみよう。

 

コーヒーを完全にやめるのは難しそうだが、「お金を使わない日を毎週1日だけ設ける」ならできそうだ。

1週間のうち、1日だけでいいならダイエットのようなものだ。

なめてかかっていたら、これが難しかった。

 

電車は定期券があるので切符を買う必要はないとして。

まずコンビニでコーヒーを買いそうになる。

我慢して出勤する。

 

会社の自販機で飲み物を買いそうになる。

買わないで済ませるため、お茶を自宅から持参する。

ランチも買わずに済むよう、自宅から弁当も持参する。

 

終業後、様々な誘惑を振り切り、まっすぐ帰る。

しかしうっかり「あ、家に卵が無いや」なんて思い出すと、足はスーパーへ向かってしまう。

「お金を使える場所」へ行ってしまったら、このゲームの負けだ。

 

やってみると、毎週一日だけ「お金を使わない日」を設けるのは思ったより難しい。

月に1日、「お金を使わない日」を設けるだけでも大変だ。

 

このゲームの効果。

無駄な出費を削減というのもあるが、「ふだん無意識にお金を使ってしまっている自分」に気づくことだ。

「お金を使わない日」がちゃんと出来ているAさん、すごいわ…。

 

同僚B氏は諸カード類や電子マネーの使用を極力避け、現金勝負にすると言っていた。

現金だと「お金を使ってしまった罪悪感」をより感じられる。

というのが彼の理由だ。

 

お金を使う罪悪感か…。(もうすでに味わっているけど)

現金勝負も、倹約意識の醸成に効果ありそうだ。

やってみよう。

 

このゲームにはプラスアルファがある。

テレビで女優のHさんが言っていた。

「ふだん、私は財布に2千円くらいしか入れていないんですよ。」

 

なんですって?

女優なのに2千円?

いや、女優のように不安定な収入だからこそ、無駄遣いしないよう財布にお金を入れておかないんだろう。

 

現金だけで勝負。

そして財布に入れる現金も少なく。

ラテマネーで貯金を垂れ流している場合ではないぞ。

 

B氏方式の「現金勝負」「財布に入れる現金は少なく」は、なかなか強烈な節約効果があった。

やはり、「持っていなければ使わない」のである。

 

財布に2千円しかないことを忘れ、店に入ってついつい何かを買いそうになる。

気に入った商品をレジへ持っていこうとして、はたと気づく。

 

「しまった、2千円しか持っていないんだった!」

 

このゲームの禁じ手はカードだ。

しかしカードを使ったらそこでゲーム終了。

なんのためにこのゲームをしている?

節約だったよね?

 

さんざん逡巡した末、商品購入を断念する。

でも、そんなに悲壮感はない。

 

よく考えれば、「似たような物が家にある」「あれで代替可能」「これは今すぐ必要ない」と思うからだ。

ってことは、2千円以上財布に入っている時は、かなり無計画に買ってるわけだな。

反省。

 

この方法を続けているうちに、無駄なものを買わなくなってきた。

しめしめ、B氏の倹約術、効果あるじゃん。

私は調子に乗って財布に入れるお金をさらに減らした。

 

そんなある日。

「たまにはお昼に一緒に行こうよ。」

同僚に誘われた。

うん、いいね。

 

今朝は疲れていてお弁当を作成する余裕が無かった。

たまにはみんなと楽しく食べたいな。

 

そう思って財布を見たら、176円しか入っていなかった。

 

慌てて職場近くのATMでお金をおろし、同僚とのランチに合流した。

やっぱ、ちょっと倹約のやり過ぎだろうか?

一瞬そう思ったが、特段反省もしなかった。

 

また別の日。

終業時間間際に仕事が舞い込んできて、残業する羽目になった。

 

終電前に何とか仕事を終わらせ、へとへとになって帰宅。

最寄り駅に到着したが、夕食を食べていないので飢餓状態である。

スーパーもこの時間はとっくに閉まっている。

 

仕方なく、コンビニに寄った。

この時間、夕食を食べるのは体に悪いのは分かっている。

でもカップラーメンくらい食べないと、あまりに空腹過ぎて眠れない。

 

胃にもたれないカップラーメン、無いかな。

空腹を満たせれば何でもいいや。

 

そして、食欲をそそる包装のカップラーメンを手に取り、レジへ向かった。

む?待てよ。(足が止まる)

今日はお金を持っていたっけ?(いやな予感)

 

いくらお金を財布に入れていないとしても、500円玉くらいあるでしょ。

それくらいあればカップラーメン1つくらい買えるだろう。

 

内心焦りつつ、カバンを開け、財布を取り出す。

財布を開けて、思わず二度見した。

なんと、47円しか入っていない。

脱力した。

 

一体いつからこういう状態なんだよ…。

この期に及んでこれかい…。

これで今日一日、職場まで行って仕事してきたわけか。

 

もし帰り道に強盗に襲われて「金を出せ」と言われても、あるだけの47円を差し出すしかない。

「これしかないのか?お前、ふざけんなよ」と逆上されても困る。

私だって困ってるんだよ、100円すら無いんだから。(←逆ギレ)

 

コンビニの片隅のATMで、急遽お金をおろしたことは言うまでもない。

その時、時間外だかで手数料も取られた。

無駄な出費になってしまったわけである。

 

というわけで。

AさんやB氏の節約術。

倹約生活にかなりの効果があることを、身をもって体験した。

 

結論。

でもさ、なんでもやり過ぎはいかん、やり過ぎは。

 

失敗を経てよく分かった。

節約するのに最も手っ取り早い方法は、「そもそもお金を持たない」ことだ。

無ければ使わない。

 

こんな荒療治?のおかげで、ラテマネーの圧縮がかなり出来るようになった。

ダイエットと同じで、節約もやり過ぎると体や精神に悪いんですけどね。

適度に細々と継続するのがおススメです。

 

 

猫トイレ

 

野良猫チビが我が家に姿を見せなくなった。

35度を超える猛暑が続き、さすがに猫たちもバテているのかもしれないが、心配である。

 

過去の記事にも書いたが、チビは二年近く前に我が家の近隣に捨てられていた猫である。

とうとう我が家は決心し、チビを飼うことにした。

 

そこで捕獲である。

家の者たちと相談し、チビ捕獲作戦を考えた。

 

チビが現れたらエサを室内に置き、家の中に入れて戸を閉める。

そして彼が慣れるまで1か月くらい室内で飼う(そのまま家猫にしてしまう)。

慣れたら獣医に連れて行き、予防接種などを済ませ、そのままうちの子だ。

毛皮がどえらく汚いので、風呂にも入れるのだ。

 

「そんなうまく行くかなあ~」

そういう私に、家族は自信満々である。

「大丈夫、エサにつられて家に入ったらこっちのもんだよ。チビはがっついてるんだから」

 

しかし、捕まると分かっているのか、ヤツは姿を現さなくなった。

なかなかうまく行かないものである。

 

そうだ、チビを捕獲する前に準備しておくものがある。

例えばトイレだ。

以前飼っていた猫・ぽん太のトイレは、引っ越しのどさくさでどこかへ行ってしまった。

トイレ本体があったとしても、猫砂を買わにゃいかん。

 

そんなことを考えながら先日、ホームセンターへ行った。

「午後から雨」という天気予報を信じ、自転車で出かけた。

秋らしい涼やかな風が吹く朝だった。

 

ホームセンターに着いてまず、ペットコーナーへ向かった。

ここのホームセンターのペットコーナーは充実している。

熱帯魚コーナーで、透明なエビちゃんの泳ぐ姿を堪能。(←何やってるんだ私)

ついでに生体販売コーナーで、愛くるしい子犬や子猫を見る。

 

実は私は、いかにも売れ筋の可愛らしい子犬や子猫にはさほど興味が無い。

むしろ、年寄りの犬とかふてぶてしい中年猫なんかが好きだ。

売れ残って年を取った犬とかいたら引き取りたいんだが。

 

一通りペットコーナーを見終えたので、猫トイレを探すことにする。

はて、どこだろう。

 

犬トイレ、犬トイレ砂、ドッグフードコーナーを過ぎた。

一応、犬トイレの価格をチェック。

だって、小型犬用トイレなら猫も使えるんじゃないでしょうか、サイズ的に。

 

しばらく歩いていくと、猫コーナーに入った。

猫トイレを見て愕然とした。

小型犬トイレと大きさはさほど変わらないのに、なんと猫トイレの方が値段が高いぞ!

なぜだ?

 

猫トイレもいろいろある。

オープンタイプ(天井部分が無く、浅いトレイ型のタイプ)、ドーム型(閉じられた箱の中に入って用を足すタイプ)、下に引き出しが付いているタイプ。

 

ううむ。

私が入るトイレではないし、猫的にはどれがいいのか分からん。

しかもお値段。

どれもそれなりですな。                                                                                                                                       

 

犬関連のグッズの方が高価だというイメージがあった。

どうやらそうでもない。

もちろん、大型犬になったら破格の値段になるんだろうけれど。

 

猫なんてそんなに体が大きくないのに、なぜだ?

なぜ犬グッズより値段が高いのだ?

腑に落ちない。

 

ぽん太はオープンタイプのトイレを使用していたのだが、用を足すとき人目を気にしていた。

まあ、誰だって用を足すときに誰かに見られたくないですよね。

動物は用を足すときは一番防御が弱くなるとか聞くので、落ち着かないんだろう。

我が家では、ひと気のない?洗面所の片隅に彼の猫トイレを置いていた。

 

それを考えると、やはりプライバシーの確保は重要だ。

なので、箱タイプがいいのかな。

トイレに天井と壁が付いていれば、人間に見られることもないしね。

 

いくつかの猫トイレがバーゲン価格になっていたので、手に取った。

カラーも3色ある。

 

ううむ…。

どのトイレも何となく狭い、ような気がする。

体の小さい猫ならともかく、オス猫になると体は大きい。

この広さのトイレで大丈夫かな。

 

ぽん太は体が大きかったので、たまにトイレからはみ出していた。

床に敷いた新聞紙に、時折うんちが転がっていることがあった。

あれを見るたびに、ぽん太は狭いトイレで用を足しづらいんだろうな、と反省したものだ。

彼のうんちを拾い上げる私を、ぽん太は物陰からじっと見ていたこともあった。

 

なので、あまりに小さいトイレはいかがなものか。

箱型のトイレは人間に見られることなく、安心して用を足せるだろう。

しかし狭すぎて、トイレの壁にうんちが付いているのもなあ。

 

どうすればいいんだ。

私は、箱型トイレのドアをぱこぱこと手でもてあそびながら、猫になった気持ちで悩んだ。

 

おっ。

棚の上に、かなり大きなトイレを発見。

底が深いし、横にも長い。

ありがたいことに値下がりしている。

 

付属の説明書を読むと、なんとトイレの大きさは猫の体長の1.5倍だという。

これなら多少の巨大猫でも快適に用が足せるだろう。

 

よく見るために、私はその浴槽型?トイレを棚から降ろした。

ちょっとした衣装ケースくらいの大きさだ。

すごいなあ。

私も入れそうだぞ。(←もう違う活用法を考えている)

 

悩んだ挙句、先ほど見たいくつかの箱型トイレを比較検討のために再び見に行った。

猫的にはふた付きが安心だよね。

でも、はみ出ることなく用を足せるのは、やはり広々とした浴槽型だぞ。

 

最終的に浴槽型トイレを買った。

ぽん太がトイレからはみ出して用を足していた姿が、どうにも忘れられなかったのだ。

ついでに猫砂も買った。

 

猫砂に付いていた説明書によると、猫にも好きな猫砂があるらしい。

 

真偽は不明だが、人気第一は鉱物系。

第二位は木系。

第三位は紙系、そして四位はおから系、五位はウッドチップなんだそうだ。

 

なぜ鉱物系の猫砂が猫に人気があるのか。

それは、猫は砂漠出身なので自然の砂に近い砂を好むのではないか、と解説してあった。

 

ふーん。

木のチップなら森林の薫りでいい気分で用が足せそうだが、猫の気持ちは理解しがたい。

 

猫トイレの方が高額という事実は理解しがたいが、ネコが好きな猫砂の研究とか、今のペット業界ってすごいなあ。

久々にペットコーナーへ行って、新しい発見があった。

 

レジを済ませ、自転車の荷台に意気揚々と浴槽型トイレをくくり付け、出発進行。

帰途に就いた。

 

ホームセンターを出てわずか1,2分走ったら、ぽつぽつと雨が降ってきた。

行く手の空は急速に分厚い雲が垂れこめ、怪しげな雰囲気。

ちょっと待ってよ、「雨は午後から」って言ってたよね?

 

と思ったのもつかの間、急に激しい雨が降ってきた。

「土砂降り」なんてものではない。

大粒の雨の5倍くらいあるような超大粒の特大雨粒が、それこそ水道管が破裂したくらいの勢いで降ってきたのだ。

いや、降ってきたというより叩きつけてきた?。

 

傘を持ってきていない。

おまけに、橋の上にさしかかってしまった。

避難場所もない。

天気予報め…と腹立たしく思いながら、自転車をこぐしかない。

 

あっという間に上着もびしょ濡れ。

パンツの裾までびっしょりになった(こんなの何年ぶりだ!)。

ちょっとした土砂降りだってこんなに濡れないのに、何だこのすさまじい雨は?

 

叩きつける雨で目を開けていられない。

うわ~、前が見えないのにブレーキもきかないよ~。

 

雨の束で顔を殴られているような、滝の中を自転車で走っているような。

そんな状態で角を曲がり、道を横断し、駅を通り過ぎ。

もう、前が見えませんてば。

 

走り続けていると、ようやく雨が弱まってきた。

そこまで来ると、後は自宅までもう少し。

どこかで雨宿りしようと思ったが、できる場所もなく帰ってきちゃったよ。

 

自宅に到着し、ガレージに自転車を入れ、自転車から降りた。

いや~すごい雨だった。

カバンの中の携帯電話は濡れなかったかな。

 

カバンからタオルを取り出し、顔や手足を拭いた。

やっとまともに周りが見渡せるようになった。

 

やれやれ、ちょっと人間らしくなった。

そうそう、猫トイレを買ったんだよな。

これでいつチビが来ても安心だ。

 

くくり付けた猫トイレを自転車の荷台から降ろそうとして、ぎょっとした。

なんと、大量の水がトイレの中にたまっていた。

先ほどの大雨で、あっという間に猫トイレに水がたまったらしい。

 

こんな大量の水を荷台に積んで走っていたんだ、私。

猫トイレにたまった水を捨てながら、ちょっと笑ってしまった。

なんでそんなに大量の雨水がたまったのかというと、そりゃ「浴槽型」だからですよ。

 

ちょっとした衣装ケースくらいの大きさがある巨大浴槽型猫トイレ。

チビがうんちをしてもはみ出さないように、という親心?で買った。

 

だが、こんなに水がたまるところを見ると大きすぎる気がしなくもない。

ここまで苦労して?トイレを買ってきたんだから、チビには早くこのトイレで用を足してほしいものである。

 

と思ってはいるが、まだチビは現れない。

浴槽型トイレは私の本棚に立てかけてある。

「鉱物系」の猫砂もスタンバっている。

 

もしチビがどこかのお宅に飼われて幸せになっているとしたら、この浴槽型トイレは無用の長物。

その時は、うーん、何か別の用途で使用するしかない。

 

しかし、思った。

猫のことを考え、猫を喜ばせようと思う猫好きの人がいるからこそ、ペット業界は利益を得ているわけだ。

猫トイレがやたら高額なのもそのせいだ。

 

私みたいなアホなヤツが、やっぱり猫業界のいいカモなんだな~。

でも、猫が幸せに暮らしてくれるなら、まあしょうがないや。

 

 

菜根譚

 

ついに、長年読まずに済ませていた「菜根譚」を読んだ。

中国の古典である。

 

いつから気になっていたかというと、高校生のころからである。

読まなきゃと思いつつ、常に忘れていたのである。

つまり、読みたいと言ってもその程度だった。

 

最近、図書館へ行くようになった。

所在なく本棚の間をウロウロし、面白そうな本を見つけては借りている。

そして発見したのだ、菜根譚を。

 

菜根譚。(さいこんたん)。

私がこの書籍のタイトルを知ったのは姉経由だ。

姉と私が高校生だった時、姉の国語の先生がおススメしていた本だった。

 

菜根譚ねえ。

実は、この年齢になるまで料理の本だと思い込んでいた。

日本でいえば豊臣秀吉の時代に書かれた、中華料理の指南本だと勝手に思っていた。

 

高校時代に、菜根譚ではない別の本を確か岩波で読んだ。

中国の料理法についての内容だった記憶がある(定かではない)。

 

卵をゆでると固くなる。

しかし、さらに加熱し続けると柔らかくなる…とか何とか、そんなことくらいしか記憶にない。

あ~どうでもいい内容しか覚えてねえな!!

 

そんなこともあり、「どうせ菜根譚も似たような本だろう」

と思い込んでいた。

だから、わざわざまた別の中華料理本を読む気がしなかったのである。

 

高校を卒業して早◎◎年。

また、私の前に立ち上がってきたのである、菜根譚が。

 

図書館でその書名を見た時、「もしやこれは例の」と記憶がよみがえり、手に取った。

パラパラとめくってみると、中華料理本ではなかった。

いわゆる「人生指南本」である。

 

「人間とはかくあるべき」「こんなことに気をつけましょう」ってヤツだ。

菜っぱと根っこの話じゃないわけだ。

 

なぜ「菜根譚」という題名か。

 

菜根譚の譚は「談」という意味らしい。

菜根とは、野菜や根っこのことだという。

菜根を食べ(つまり粗食に耐え)、切磋琢磨しろよん、ってなことらしい。

 

図書館には、なんと数種類の「菜根譚」があった。

(解説付きが多いってことは、原本は難しいんでしょうね)。

 

分かりやすくイラストが付いているタイプ。

原文(中国語)の読み下し文が付いているタイプ。

 

そんな中で、割と読みやすそうな新釈版にした。(「精選 新釈 菜根譚PHP研究所)。

選んだ理由は、「人生はくよくよしないほうがいい」と表紙に書いてあったからである。(←単純)

 

解説によれば、菜根譚は20代で読んでもあまりピンとこないらしい。

30代になってから読むと、理解できるようになってくるらしい。

 

うん、確かにそうだ。

読了してそう思った。

「そうそう、私も人生でこういう結論に達したわよ」って思うことが多かった。

やはり人生指南本はある程度の人生経験を積んできた人には読みやすいのかもしれん。

 

そういう意味では、社会に出る前の10代、または社会人生活を開始して間もない20代のうちに読んでおけばよかったかな、という気がしないでもない。

タイミングを逸した。

やはり高校の先生が勧めている時期に読んだ方が良かったわけだ。

 

菜根譚には人生についての戒めもあるが、仕事をする上での心構え的な言及もある。

例えば、「功名を無理に求める必要はない。(平凡でも)大過なく過ごす人生は素晴らしい」。

なんてのも、今となっては結構私の身に沁みる。

 

何年か前のこと。

職場では「業務軽量化しろ」と上司たちがしつこく言っていた。

分からんでもない。

仕事というものは、増やそうと思えばどんどん増えてしまうものだしね。

 

私は一応管理職(下の方だが…)なので、自分の部署での業務軽量化に取り組んだ。

そしてある日、人事のヒアリングがあった。

そこで聞かれたのが、「業務軽量化についてどこまで取り組んだか」である。

 

そこで、私は答えた。

「私の部署では◎◎をやった、無駄削減のため××に取り組んでみた、そして業務の軽量化が進んだ。」

 

すると、面接者(私の直属の上司ではなく、人事担当の役職者ね)が私に尋ねた。

 

「じゃあ、業務軽量化をして浮いた時間はどうするんですか?」

 

んなもん、決まっとるだろう(←エラそう)。

私は自分の信念に従い、笑顔で答えた。

 

「業務が早く終了したら、部下を早く帰宅させたいです。無駄な残業を減らして部下を休ませたいので」

 

すると、私の返答を聞いた面接者の顔がこわばった。

(あれ?間違った回答しましたかね?)

と思っていると、案の定、面接者は苦々しい口調で言った。

 

「浮いた時間で、ほかの仕事が出来るでしょ?」

 

私「…。」

(そういう回答を期待していたのか)

 

部下を休ませて何が悪いのだ。

ちゃんと終業時間まで仕事したのだから、帰宅させて何が問題なんだ。

 

とその時私は思った。

(反論はしなかったけど、反抗的な態度が顔に出ていたかも)

 

当然?私は昇進しなかった(笑)。

ま、そんなことが今日までにたくさんあった。

 

以前は「仕事を頑張り、会社から評価されたい」と思っていた。

でも、どうも会社的考え方と自分の考え方は合わないことに気づいた。

「女のくせに」なんて、年がら年中言われてきた。

 

そんなことが長年続き、遅まきながら、出世競争とかそんなものから降りることにした。

どうでもいいおじさんたちからの評価なんてどうでもいいや、と思うようになった。

きちんと仕事をして自分の生活が回れば、それだけで十分だと考えるに至ったのだ。

 

そういう「競争から降りた」状態になってから読む菜根譚

うーむ。

まだやる気満々だった時に読めば良かったのかな。

各種の諫言や金言を読むと、反省させられたり鼓舞されたりするんですけどね。

 

しかし、昔も今も人間は変わらないらしい。

「民衆を愛さない官吏は税金泥棒だ」なんて面白いのもあった。

(昔の中国にもそういう公務員がいたんだな)

 

そんな中、「誠実さが最も人間に必要」ってのは、激しく同意します。

 

有名大卒とかすごい会社でキャリアを積んだとか、イケメンとか美女とか。

そんなものは、働いていると案外些末なことだ。

どれだけ高学歴であっても、「誠実でない」というだけでその人のすべてが台無しだ。

 

「誠実である」ということは、人に信頼されるってことですよね。

人間関係において信頼されない人は、どうしようもない。

 

多種多様な金言があるが、特に社会人にとって必要なこと。

それは「誠実であること」、やっぱりこれに尽きる。

なので、ここは菜根譚の言う通り、「誠実であること」を肝に銘じて人生を過ごそうと思う。

 

と、ここまで書くと読者の方の反応は2つに分かれるかもしれない。

10代、20代の方は、「菜根譚は今から読んでも役に立つかも」と思うかも。

30代以上の人は、「もうある程度の社会経験を積んだから、読まなくてもいいかな」と。

 

いや、菜根譚はどんな年齢の人でも楽しめると思います。

 

「人の値打ちは後半生で決まる」なんて言われたら、今からでも?頑張ろうと思いませんか?

「早熟は晩成に及ばない」なんて、スロースターターの私なぞめっちゃ鼓舞されます。

「功績や学歴が無くても立派な人生を送れる」うん、そう思いたい。

「古い友人を大切にしなさい」そうか、新しい友人を増やすのもいいけど、古い友達も大事だよな。

 

などなど。

手元に置いておいて、たまにパッと開いてそのページを読む、なんて使い方もいいかも。

オリジナルの菜根譚は読むのが難しそうですが、これは「精選」で「新釈」なのであっという間に読めちゃいます。

 

というわけで、結論。

 

菜根譚自体は良い本だ。

何歳になっても学びのある本ではあるが、個人的おススメとしては、できれば若いうちに。

 

というわけで、本には読むタイミングというものがある。

と改めて思った菜根譚でした。

 

ところで、菜根譚を図書館から借りた際、つい「世界の朝ごはん おいしいレシピ集」も借りてしまった。

香港と台湾のおかゆがおいしそうだったからだ。

 

菜根譚=中華料理」、違いますからね!違いますよ!

一番「菜っ葉と根菜」に引きずられているの、自分じゃん。

 

「世界の朝ごはん」本については、また別の機会に記事を書こうと思います。