オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

1911年生まれ、"The One"

アメリカで出会った人について、もう少し書きたい。

 

大学2年の夏だったか、当時通っていた大学が所在する市内で開催されたチャリティイベントに、私は参加した。イベント終了後、無料の昼食がふるまわれた(私がイベントに参加した目的はこれだった 笑)。

さわやかな青空の下、テーブルやいすが並び、おいしそうな料理が出てきた。明るい夏の日差しのもと、外でご飯を食べるのは本当に気持ちがよい。隣に座った、英国風の老紳士が私に話しかけてきた。

 

「君は日本人かな?留学生?」

私はうなずき、市内にある〇〇大学へ通っている、と答えた。すると紳士は笑顔になって、

「僕も、秋学期からその大学に通うんだ。よろしくね。」

という。話を聞くと、老紳士は秋学期から私の大学で歴史学を履修する予定ということだった。彼の取る科目のうち、一つは私も履修予定だった。話が盛り上がり、キャンパスでの再会を約して別れた。

 

そのイベントに誘ってくれたアメリカ人の友人は、その老紳士(ウィリアム氏としておこう)と同じ教会に通っていた。

友人によれば、ウィリアム氏は米国東海岸で長いこと弁護士を務め、退職して田舎に移住してきたのだという。ウィリアム氏に聞いたところ、「妻が庭いじりしたがるので、田舎がいいだろうと思ってね」ということだった(アメリカ人も、リタイア後は田舎暮らしがいいんですね)。

 

当時、私の通っていた大学は、シニア市民だと授業料が格安になった。ウィリアム氏は生計を立てるため弁護士になったが、本当は歴史学を勉強したかったらしい。退職して、ようやく本当に自分の勉強したいことができるようになった、といって嬉しそうに大学へ通っていた。

毎回、授業の始まる前に三つ揃いのスーツ姿で教室に現れ、中折れ帽子を取って椅子に座り、教科書を広げ、静かに授業開始を待っていた。授業中も、教科書を読んで分からなかったことを教授に質問し、新聞を読んで疑問に思ったことを教授や学生たちと熱心に意見交換していた。模範的学生だったが、高齢で耳が遠くなっており、自分が若い学生に迷惑をかけているのではないか、ということに気づいてから、教室の片隅でひっそりと授業を聴講していた。その静かなたたずまいと勉強に対する情熱は、学生の尊敬を集めていた。

 

私は大学を卒業すると日本へ帰国し、働き始めた。ウィリアム氏からは何度かカードや手紙が来た。ウィリアム氏の誕生日は1911年11月1日。数字の1が並ぶことから、氏は自分のことをふざけて”The One"と呼んでいた。私は60歳くらい年上の友人が、いまだに大学で授業を履修していることに驚いていた。

 

ウィリアム氏は、歴史の長い日本にあこがれていた。「日本は古い国だから、尊敬しているんだ。一度は行ってみたいね」とよく言う。最初は、日本人である私に対する社交辞令かと思っていた。

 

大学を卒業し、しばらく働いて貯金を貯めた私は、米国東海岸の大学院へ入学することになった。東海岸はウィリアム氏のホームグラウンドだ。「アメリカに戻ってきたら、電話番号を教えて」と言われ、連絡先を氏に教えていたが、そのことをすっかり忘れていた。

ある日、ウィリアム氏から電話がかかってきた。「やあ元気?」と懐かしい声が聞こえた。氏は、私の大学院での生活や勉強について聞き、私も彼の近況を聞いた。すると、ウィリアム氏の一人娘が日本人男性と結婚することになった、という。「これは良い機会だから日本に行かなきゃね」と茶目っ気たっぷりにウィリアム氏が言う。そうだね、と私も答えたが、まさかこんな高齢のおじいさんが長時間フライトに耐えて日本に行くとは想像していなかった。

しばらくして、私の手元にウィリアム氏から手紙と数葉の写真が届いた。「鎌倉にて」というキャプションが添えてある写真には、中折れ帽と三つ揃いスーツ、いつもの銀の鎖の懐中時計をポケットからちらりと見せたウィリアム氏が、青竹の美しい報国寺でポーズをビシッと決めていた。年をとっても新しいことを勉強したい、というその熱意に私は脱帽した。

 

大学院を卒業後、私は南アフリカ共和国で仕事をする機会を得た。南半球で生活を始めると、アメリカでの生活や友人が遠のいていくのがよく分かった。物理的にも心理的にもだ。アメリカでお世話になった方の一人が、高齢で体調を崩していることも気になった。これが最後のアメリカになるかもしれない。そう思って、私は休暇を利用して南アからアメリカへ飛んだ。

 

大学卒業以来、来ていなかった町。冬だったのですっかり雪に埋もれていたが、以前より新しい商店やレストランが増え、かなり様子が変わっていた。これほどまでに生活しやすい街だったかな?と思った。

滞在中、ウィリアム氏から「自宅に来ないか」とお誘いを受けた。私は彼にも会いたかったので、共通の友人と二人でウィリアム氏の自宅を訪ねた。赤々と燃える暖炉の火の前で、ウィリアム氏はいつもの柔和な笑みをたたえ、私たちを出迎えてくれた。少しやせたが、元気そうだった。

彼はいつものように私の近況や仕事について聞き、私も彼が来学期、どんな授業を履修するか聞いた。ウィリアム氏の話を聞きながら、私は彼の興味が歴史学から国際関係学へ移っていることを感じた。彼は、今の世界情勢を大変憂いていた。

 

なぜアメリカは地球の資源を総取りしてしまうのか?どうして他の国を苦しめてしまうのか?アメリカ人の過剰に豊かな生活のために、多くの国へ回るはずの資源を米国企業は奪っているのではないか?テロや戦争が終わらないのはそのせいではないか?自分は無力な一個のアメリカ人だが、アメリカがもっと他国と仲良くしてほしいと願っている…

 

というような話を、ウィリアム氏は熱心に語った。ウィリアム氏のほほが紅潮していたのは、暖炉の炎に照らされていたからだけではない。私は、こういう話を語れる友が少なく、ウィリアム氏は私にとって尊敬すべき人生の先輩だったが、同時に私と対等に話してくれる善き友人でもあった。

 

夜が更けた。高齢のウィリアム氏の体調を気遣い、「もう失礼させていただく」と我々が申し出ると、ウィリアム氏は来てくれてありがとう、と礼を言った。立ち上がると、

「申し訳ないが、今日は雪で路面が凍っているので、僕は足元がおぼつかない。滑って転んだら寝たきりになってしまうので、ここで失礼させてほしい」

と彼は丁重に詫びの言葉を述べ、玄関先まで見送ってくれた。私はウィリアム氏と再会することを約束して、氏の自宅を後にした。

 

それが、ウィリアム氏と会った最後になった。

南アに帰国してしばらく経ったころ、一緒にウィリアム氏宅を訪問した友人からメールが届いた。私たちが訪問して2か月後に、ウィリアム氏は自宅で亡くなった。奥様によれば、眠るように静かに息を引き取ったという。

ウィリアム氏の訃報を聞いても、私はなぜか悲しい気持ちにならなかった。亡くなったことは残念だが、彼は妻を養い子を育て、最後は自分の好きな勉強が思い切り出来て、幸せな人生だったのではないかと思う。

 

なぜ彼と私は長い友情をはぐくめたのか、と時々考えることがある。知り合ってから亡くなるまで、ウィリアム氏は一度も私に「自分の若いころはすごかった」のような自慢話もしなかったし、「今どきの若い者はダメだ」のような、社会の特定層を貶めるような発言もなかった。私は氏と接するたびに、彼の知性と品の良さを感じた。ウィリアム氏が周囲の人々から尊敬を集めた理由は、彼が謙虚であり誰に対してもフラットである自律心があったからなのだろう。私も、自分が若い人と接するときのヒントにしようと、常々思っている。

今頃は、ウィリアム氏は天国で教科書を広げているだろう。私もこういう人生でありたい、と尊敬する先輩の一人であり、今も懐かしく思い出す友人の一人である。