スペインに留学する前、当然ながらスペイン語を勉強した。最初の学期は苦労したが、努力の甲斐あって最終試験ではAを取ることができた。なので自分はスペイン語が出来るのだ、と勝手に思い込んでいた。思い込みとは恐ろしいものです。根拠ないこの自信、スペインでアッという間に吹っ飛ばされる。
スペインへ到着した最初の日。スペイン人のしゃべるスピードの速さに圧倒され、何を言っているかわからず、乗るはずだった列車を逃した…。それを皮切りに、自分のスペイン語能力の低さを思い知らされる、あんなことやこんなことが大発生した。そして、紆余曲折を経てスペイン人のお宅に下宿することになった。(このドタバタは長いので割愛。)その節は多くの方にお世話になりました。
他の留学生は留学生同士でアパートをシェアしている人が多かった。ドイツ人の同級生は、自分はドイツ人同士で生活しているので全然スペイン語が上達しないと言っていた。
それがちょっとうらやましかった。私はスペイン人一家と一緒に生活しているので、24時間スペイン語漬けだ。若い両親(マリアとルベン(仮))はとてもいい人だが、全く英語が分からなかった。家には小さい子どもが3人いて、奴らは容赦なくスペイン語をしゃべる。マリアとルベンはバルの経営者で朝から晩まで働いているため、近所のおばちゃんがマリア宅の掃除や料理のお手伝いに来ていた。このおばちゃんも当然ながらスペイン語しか話せなかった。
自分の言いたいことは何も言えず、相手の言っていることも全く理解できず。「うあ~あ~~英語がしゃべりたい!!(日本語でもいい!)」と思うことも毎日だった。今思えば、スペイン語を勉強しに来てるんだからスペイン語に集中できて良い環境じゃないかと思うが、自分の言いたいことを言えない、相手の話も全然理解できないというのは大変ストレスのたまるものだ。全く日本語ができない在日外国人の方々は、さぞかしイライラがたまることだろう。
お手伝いのおばちゃん(ロシオという)は、私の家の裏手に住んでいた。ロシオの夫、ホセはバスク人だった。バスク地方とはフランスとスペインにまたがる地域で、人種的にも文化的にもヨーロッパとは異なるという。(スペイン人に言わせるとバスク語は日本語に似ているというが、似ているようには思えない。)
ホセは、フランコ将軍の最後の時代を体験していた。このことについては後述する。
話は元に戻る。
毎日大学へ行って授業を受け、図書館でも家でもかなりの時間を勉強に充てているにも関わらず、最初の3か月は全く私のスペイン語能力は伸びなかった。これだけ勉強しているのに、どうしてなんだろう?やっぱり頭が悪いのだろうか?と落ち込むこともしばしばだった。
ある日帰宅すると、珍しくルベンとホセが台所のテーブルで一杯やっていた。
「ただいま」と言って自室にこもろうとすると、二人のおっちゃんから声がかかった。
「こっちへ来なさい。」
台所へ行くと、二人は私に座るように手招きをする。椅子に座ると、ホセが私にグラスを寄越し、ルベンがワインを注いでくれた。私がきょとんとしていると二人は、
「まあ飲め」
と言う。どうしてワインを?と不思議に思っていると、すでに出来上がっているらしい二人は、
「早く飲め」
と上機嫌で言う。よく分からないが、いただくことにする。私が飲み干すと、二人は満足そうにまたワインを注いだ。ホセとルベンを見ると、二人は「どうぞ」と言わんばかりに飲むように私に勧める。言われるままに二杯目も飲む。
「どう、大学の方は?」
ホセが聞く。言わないでくれ、それを。私はストレスがたまってるんだよ。
どう答えようかと悩む。二人のおっちゃんは楽しそうに私の言葉を待っている。仕方なく、片言のスペイン語で、
「自分は毎日真面目にスペイン語を勉強してるんだが、まったく上達しないので悲しい」
というような趣旨のことを言ってみる。ルベンは笑う。
「大丈夫だよ。そのうちスペイン語が分かるようになるよ。」
と慰めてくれる。頭ではわかってるんだけど、思った以上に歩みがのろくてフラストレーションがたまるんだよ。
むすっとしていたわけではないが、笑顔にはなれなかった。当時の私は早く結果を出そうと焦っていた。二人のおっちゃんは、私のとげとげした気持ちをリラックスさせようとしていたのかもしれないが(あるいはただ単にべろべろに酔っぱらっていただけかもしれんが)、私には相手の配慮を思いやる余裕がなかった。
そんな私をホセはじっと見ていたが、ややあって口を開いた。
「No Corras. Que te caes. Tienes que andar.」
(走るな。走ると転ぶから。歩くんだ)
なるほど。
だんだんワインが回ってきて、文法的に正しいスペイン語を話すことなんぞどうでもよくなってきたが、ホセがどうやら私を励まそうと思っているらしいことは理解できた。おつまみのコロッケやオリーブも美味しいぞ。ま、飲め。ルベンがまたワインを私とホセと自分のグラスに注いだ。見ると、おっちゃん二人は無言で杯を空けている。真面目に思い詰めていたのがアホらしくなってきた。
急ぐと転ぶ。ゆっくり歩け。
私はホセの言った言葉を繰り返した。語学の勉強は焦ってもすぐに上達するわけじゃない。ゆっくり歩いて前に進むしかないんだろう。この日を境に、肩に入っていた力が抜け、スペイン語の勉強が楽しくなってきた。酒の勢いとはすごい。
ーーー
結局、普段の会話がほとんど理解できるようになるまで3か月ほどかかった。スペイン語が分かるようになると、当然ながらスペインでの生活が楽しくなる。スペイン人とどうでもいい無駄話が出来るようになり、そうなるとますますスペインが好きになった。英語が通じない国なんて早く去りたい、と思っていたのがうそのようだった。
私がスペイン語を理解できるようになると、ホセは時折、自分の若いころの話をしてくれるようになった。道の両脇に兵士がずらりと並び、バスク人か否かを身分証明書でチェックされる。ホセはバスク人だったので、理由なく殴打されることが多々あったという。そのためか、ホセは中央政府の偉い役人には反抗心を持っているようだった。面白かったのは、バスク人ではないルベンやマリアの前では、ホセはそういう体験談を話さないことだった。
1930年代に当時のスペイン領モロッコで蜂起したフランコ将軍は、瞬く間にスペイン全土を掌握し、スペインはファシズム国家となった。スペインを第二次大戦に引き入れようと、ヒトラーやムッソリーニはフランコの機嫌を取ろうとした。ナチス・ドイツがバスク地方の町、ゲルニカを無差別爆撃したのもその一つだ。フランコ将軍はバスクが大嫌いだったからだ。(ちなみに、ゲルニカは「スペインの広島」と呼ばれている)。
イタリアやドイツのラブコールには応えず、フランコは「国内が安定していないから」等の理由を付けて第二次大戦に参戦しなかった。そのため、イタリアやドイツが降伏し第二次大戦が終了した後も、スペインはファシズム国家として生き残った。フランコ将軍は死去するまで恐怖政治を敷き、バスク人を弾圧し続けた。
フランコ将軍の死去後、ブランコ首相という人物が後継に就いた。フランコの後釜ブランコ(名前がまぎらわしいな)は、フランコ以上に残虐な人物だったという。結局、恨みを募らせたバスク人テロ組織に、ブランコは乗用車ごと爆殺される。
こういったスペイン史を大学で履修した。私の知識に生き生きとした肉付けをしてくれたのは、ホセの体験談だった。
振り返って思うのは、語学の勉強とは、語学そのものを勉強するというよりは、語学を通じて何かを得るのが目的だ。四苦八苦したスペイン語習得だが、スペイン語が分かるようになったおかげで、誰かの体験を追体験したり、その人の世界観にふれたりすることができた。
私にとってのブレイクスルーは、ホセとルベン、二人のおっちゃんと飲んだことかもしれない。外国語は簡単には身につかない。しかし焦ってもすぐには結果が出ない。毎日小さな努力を継続していくしかない。
なんて今は偉そうに書いているが、こんな私に辛抱強くスペイン語で話しかけてくれたスペイン人たちに、心から感謝の意を表したい。あれから長いことスペインへ行っていないが、語学習得について何かを教えてくれたスペイン滞在と、心優しいスペインの人々のことは、今も忘れることはない。