オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

ニューメキシコ州の日本人移民

アメリカで大学生をやっていたころの、冬期休暇の思い出を書く。

 

アメリカの大学に通っていた間は、年末年始や夏季休暇であっても日本へ帰ることが出来なかった。単純に飛行機のチケットを買うお金がないからなんだが、ま、仕方がないと思っていた。一生帰れないわけじゃないしね。

 

ある冬の日、アメリカ人学生たちはクリスマスを目前に浮き立っていたが、私は家に帰れないので浮き立つわけもない。バイト先でもしこしこと皿洗いに打ち込んでいた。

すると、アメリカ人のバイト学生が、「君はクリスマス休暇に日本へ帰るのか?」と聞いてきた。「お金がないから学生寮に残る。」と答えると、彼は気の毒そうな顔をした。

「たった一人で年末年始を過ごすのか?」

だって、仕方ないじゃん。クリスマスはキリスト教徒のアメリカ人にとっては家族と過ごす一大イベントだが、私は日本へ帰るお金がない。発展途上国から来ている留学生も、帰国するお金がない学生が多かった。

すると、彼(ティムとしておく)は、良かったら自分の家に来る?と誘ってくれた。私はありがたいと思ったが、ま、社交辞令だろうし、実現するわけもないから、適当に答えておいた。

「あなたの家族がOKしたら、行かせてもらおうかな。」

ティムは分かった、家族に聞いておくよ、と言ったが、私は真剣に聞いてなかったのでそのまま忘れてしまった。

 

翌日、バイト先の学食に出勤してきた私を見つけ、ティムが笑顔で寄ってきた。

「昨日さ、親に電話したら、日本人留学生を連れてきてもいいよ、って言ってたよ。だから一緒にうちの実家に帰ろうよ。」

げげっ。忘れていた。ちゃんとご両親に確認してくれたんだ。…なんていいやつなんだ(自分の適当さを反省)。

かくして、私はコロラド州方面へ帰省するアメリカ人数名の車に同乗し、ティムの自宅へ向かったのだった。

 

ティム宅へ到着して、内心驚いた。小さな平屋の一軒家に、両親と高校生の弟、妹が住んでいた(ペットの犬も猫もいた)。アメリカ人の友人宅を何度か訪問したことがあるが、彼らの親は車が何台も入るような広い車庫付きの大邸宅に住んでいたり、ヨットを保有していたり、結構良い暮らしをしている人が多かった。

統計によれば、アメリカ人の給料は日本人の給料の2倍くらいらしいので、彼らが特別裕福と言うわけではないだろう。違う目で見れば、親が大邸宅に住んでいても子どもの学費は出さないんだな、お金についてはシビアでアメリカ人って徹底しているな、とも感心する。

実家で過ごすよう誘ってくれるということは、彼の実家はお金持ち、あるいは並み以上の生活レベルなんだろうと勝手に想像していた。しかし、現状を見る限りそうでもなさそうだ。それほど裕福でないのにこうやって誘ってくれたということは、優しい家族なんだろうな、と思った。

 

どうして「日本人留学生を家に連れてきてもいい」とティムの家族は言ったのか。

理由はすぐに分かった。高校生の弟と妹は、学校で日本語を勉強していて日本に興味がある、という。お父さんはベトナム戦争へ徴兵された後、アメリカに帰国する前に日本へ立ち寄り、日本人に親切にしてもらったので日本が好きだ、という。

こういった理由は何となく予想していた。私が日本人とわかると、「自分は日本が好きだ、なぜなら…」と言って、日本へ旅行したことがある、日本語を勉強している、といった理由を挙げる人が今までに多かったからだ。

しかしなぜかティムのお母さんだけは、そういった理由を挙げなかった。彼女は、夫や娘、息子が「日本好きな理由」を口々に私の前で列挙するのを聞きながら、黙って微笑んでいた。時折、私の顔をじっと見ることもあった。もしやお母さんは日本嫌いなのでは?と私は疑念を持った。

 

そのあとも何日間か共に過ごしたが、ティムのお母さんは「日本が好きだ」と一度も言わなかった。私はますます「お母さんは日本に興味が無いのかも、いや、私のことが気に入らないのかも?」と疑うようになった。ま、ティムのお母さんに嫌われても仕方ないんだけどね。それにしても私の何が悪かったんだろう?訳の分からん国の留学生だが、息子が勝手に家に連れてきたから仕方ない、とでも思っているのかもしれない。すみませぬ…クリスマスが終わったら、大学へ帰りますよ。

 

そんなある日。お父さんとティム、弟と妹は、夕方に買い物へ出かけた。家にはお母さんと私の二人きりになった。お母さんは「夕食の準備を始めましょうか」と言い出し、私も暇だったので手伝うことになった。

ブロッコリーをゆでたり、お皿を出したりと台所で作業をしながら、最初は二人で雑談をしていた。そのうちにお母さんは、「日本人にまつわる」昔話をとつとつと物語り始めた。

 

ティムのお母さん(ここではエスターとしておく)が子どもの頃、母親が病気になり、入院したという。母親の入院は長引き、父親は若い女性と家を出て行った。ほどなくして母親は死去し、後には数人の子ども(エスターはたくさん兄弟がいた)が残された。

エスターの親せきは皆、「こんなに多くの子どもを引き取ることはできない」「うちも生活が苦しい」と言って、誰も子どもたちを引き取ろうとしなかった。昔はアメリカも貧しかったのだ。

家賃が払えなくなり、放り出された子どもたちは、ホームレスになるしかなかった。ニューメキシコ州の森の中へ移動し、新聞紙などをゴミ捨て場から拾ってきてティーピー(ネイティブアメリカンのテントのようなもの)もどきを作り、そのボロテントに子どもたちだけで住むことになった。食べるものはなく、ゴミをあさったり食べられるものを森で探したりする日々が続いた。兄弟たちはどんどん衰弱していった。

 

ある日、その森の中を日本人移民のおじさんが馬に乗って通りかかった。彼はアメリカに渡りニューメキシコで農場を経営していた。すると、たまたまエスターの兄弟の一人が川へ水を汲みに行ったところに出くわした。彼はびっくりした。こんな森の中に、乞食のような身なりの子どもが出てきたことに驚いたのだ。

不思議に思ってその子どもについていくと、みすぼらしいテントがあった。そこをのぞくと大勢の汚れた子どもが次々に出てきて、またまた驚いた。子どもたちの話を聞いて、彼らの両親がいないことが分かった。

その日本人移民のおじさんは、自分の農場で働かないか、とエスターたちに申し出た。おじさんについていくと、君たちはここで寝泊まりしなさい、と立派なトレーラーハウスを用意してくれた。こうして、エスターたちはようやく雨風をしのげる家で生活できるようになった。

 

お母さんは淡々と話す。

「私たちは農場の簡単な作業の手伝いしか出来なかった。でも、君たちが働いた分のお給料だよ、と言って、そのおじさんはお金を払ってくれたし、食べ物も分けてくれた。自分たちは知っていた。子どもなので、お金がもらえるほど大した働きはしていない。全て、そのおじさんの好意だった。」

その日本人移民のおじさんがいなければ、私たち兄弟は全員餓死していただろう。だから、私は「日本人が好き」なのではなく、日本人に恩義を感じている。

お母さんは遠い昔を思い出すように、そう言って話を閉じた。

 

私はお母さんの物語を聞いて、不思議な気分になった。

その日本人移民のおじさんが見知らぬアメリカ人の子ども(ティムのお母さん)を助けてくれたから、何十年か後に日本人留学生(である私)が、年末年始にティムのお母さんにこうやってお世話になっているわけで。親切の連鎖が続いているのだ。その移民のおじさんに、私からも感謝したい。

 

なぜか分からないが、クリスマスをティム宅で過ごした後、私はティムよりもお母さんや妹と仲良くなった。休暇が終わった後もお母さんたちとの連絡のやり取りは続き、次の休暇もティム宅へ行くことになった(国は違えど女子同士…)。

今思うと、ティムのお母さんがキラキラした目で私を見ながらずっと黙って微笑んでいたのは、一言で言い表せない 様々な感情があったからなんだろうな。