南アフリカの中には、レソト王国とエスワティニ(旧称スワジランド王国)という二つの国が存在する。歴史的理由から、国の中に国が存在する形になった。
私は特にレソトに思い入れがあったわけではない。あまり人が行かない国へ行ってみるのも面白いかもという程度の気持ちで、レソトに行ってみた。
南部アフリカ東南部には、3,000メートル級の山々が連なるドラケンスバーグ山脈がある。レソト王国は、ドラケンスバーグ山脈の中に存在する小さな山岳国だ。調べると、面積は四国の1.6倍。人口は約200万人、首都はマセル。レソトとはソト族の国、という意味らしい。ちなみにソト族のことはバソトと言う。
2泊3日の休暇。さてどう過ごすか。
手っ取り早く観光名所を回ろうと思い、マセル市内の観光案内所へ行く。レソト名物の三角帽子の形をした、かわいらしい建物だ。案内所ではレソトのお土産を売っている。わらで編んだかごや、はぎれ布で作った人形など、いずれも素朴な手作りだ。
案内所のおねえさんに聞いてみると、「観光バスはないので、観光タクシーを利用したらどうか。」
「こんなところに行ってみたい」と、マセル到着前に調べてきたいくつかの名所の名前を挙げると、観光タクシーはそれらの場所をめぐってくれるという。3日間(厳密には2日半だ)頼みたい、というと、おねえさんがすぐに観光タクシーを手配してくれた。
案内所の前で待っていると、すぐに観光タクシーが現れた。車から降りてきたのはビール腹の、ちょっと胡散臭そうな中年のおっちゃん。信用できるんだろうか?こっちは外国人で一人旅行なんだが…。
不安なので、観光案内所のおねえさんに「もっと信頼できそうな?運転手を紹介してほしい」と目で訴えた(さすがに、そのおっちゃんの前で言葉に出しては言えない)。しかし、おねえさんは「よかったわね。あのおっちゃんはベテランよ。グッドラック!」と微笑む。私は気乗りのしないままおっちゃんのタクシーに乗った。出発進行。
車内で終日、このおっちゃんと二人きりか…。外見で判断してはいけないが、私は気を引き締めた。絶対だまされないぞ。変なことしたら大声あげるぞ。料金上げたら観光案内所に文句つけてやる。
おっちゃんは、不安でいっぱいの私をよそに「ほら、あれが議事堂だよ」などと言いながら、スイスイ車を走らせる。どうやらマセル市内はコンパクトに回れるようだ。南アフリカ共和国の中に存在する国だけあって、通貨も南アフリカランドが使用できる。多くのレソト人が南アフリカへ出稼ぎに行く。産業は畜産と農業が主産業だ。夏はトレッキング、冬はスキー。観光産業が最近は伸びてきている。四季もある。おっちゃんはそんなことをとりとめなくしゃべった。私は車窓を眺めながら、おっちゃんの観光案内をぼんやりと聞いた。
行ってみたかったレソト国立博物館(MMA)は、町中心部から1時間ほど離れたモジラにあった。建物が思いのほか小さく驚いた。中に入っても同様だった。
予想はしていたがうーむ…。展示品も展示方法も管理方法も、いいのかこんなにずさんで…。ぐるっと館内を見て、これで終わり?と思ったが、国も小さいし、歴史もそう長くないので、最終的には納得がいった。ま、期待しすぎてはいけない。
おっちゃんは私がじっくり見るタイプと理解したらしく、建物の外で辛抱強く待っていてくれる。不必要に干渉せず、適当に放っていてくれるのはありがたい。
あちこち観光名所を巡っているうちに、おっちゃんが思いのほかきちんとしていることが分かった。トイレは清潔な場所を選んで連れて行ってくれる。英語も上手だし、運転も確実だ。レソトの歴史や文化についてもいろいろ教えてくれる。脂ぎって胡散臭そうなおやじ、と思った第一印象は次第に良くなっていった。
二日目。おっちゃんはホテルまで迎えに来てくれた。私が乗り込むと、広い駐車場スペースを見つけてタクシーを止める。何をするのかと思いきや、額縁に入った古い写真を嬉しそうに見せてくれる。見ると、馬にまたがったおっちゃんの写真だった。居間に飾ってあったのを持ってきたのか、写真が退色している。
「これはおっちゃんか?」
と聞くと、「そうだ。どうだかっこいいだろう?」と自慢げ。馬上のおっちゃんはレソトの民族衣装を身に着けている。昔はイケメンだったようだ。
レソトの民族衣装は毛布だ。山岳国であるレソトは畜産が盛んで、モヘアなど毛糸の原料を生産している。この暖かい糸で織った毛布をまとうのが、彼らの伝統だ。毛布をまとうなんて想像つかないかもしれないが、レソト人が毛布をまとって馬上の人となった姿は、なかなかりりしい。やはり民族衣装はその人を一番美しく見せるのかもしれない。
おっちゃんは民族衣装をまとった写真を見せながら、私に語る。「君は信じないかもしれないけど、僕は王族の一員だからね。こういう衣装で馬に乗ったりすることもあるんだ。」
ふんふんと私は適当に相槌を打つ。「王族の一員」なんて、怪しいものだ。どの国でも王族の末裔とか一員とか、うじゃうじゃいるものだ。王様は妻を何十人も娶り、子孫もたくさん。石を投げれば「王族の末裔」に当たるんじゃないの。
初日に何となく予感はしていたが、その日のお昼くらいから「マセル観光名所」が尽きてきた。そもそも大きな国ではないし、マセル近郊には名所があまりないのだ。レソトに来る観光客の目当ては、ホーストレッキングか、スキーと相場が決まっている。観光地も首都を離れた山とか滝、ダムだ。私のように文化や歴史に興味のある観光客など皆無なんだろう。
おっちゃんも、「名所があまりないんだよなあ」と言いながら、山の方へ車を走らせていく。前日に町中や博物館やらを見たので、残っている名所は遠方の山岳リゾート地だけになっていた。そこまで行くなら二泊三日では逆に足りない。やっぱりこんな小さな国では、見るものないのかなあ。
町を離れてしばらくすると、おっちゃんがタバ・ボシウ(夜の山)と呼ばれる丘のふもとで車を止めた。「ここは歴史的場所なんだ」というので、私もおっちゃんと一緒に車を降りる。丘といえど入口はなだらかな道なので、ぶらぶら歩きながら登っていく。天気が良く、気持ちいい日だ。
丘の上に到着すると、おっちゃんは丘の下を指さして言った。
「ここでイギリス軍とオランダ軍が戦った。俺たちバソトはイギリスに味方した。なんでかって?イギリスは、『バソトがイギリスに味方してイギリス軍が勝った暁には、レソトの独立を認める』と言ってくれたからだ。下から登ってくるオランダ軍に、俺たちは上から石を投げたりして追い払った。イギリスは勝った。だから南アフリカの中にレソト王国が誕生したんだ。」
なるほど。
南部アフリカにはほかにもたくさんの民族がいる。例えばズールー族は勇猛果敢で名をはせた部族だが、彼らは最後までイギリスに抵抗したため、ズールーランドはイギリスが支配する南アフリカに吸収されてしまった。ソト族は独立を果たした。こうして、一方では独立し、一方ではイギリスに吸収される民族や王国が発生した。
さて、そろそろ丘を降りるか。
今来た道を戻ろうとすると、おっちゃんが「この先に進もう」と私を促す。まだ見るものがあるのか?と不思議に思うが、おっちゃんはずんずん先を歩く。私も仕方なく、おっちゃんを追って丘のてっぺんの広い草原を歩く。丘の上は青空が広がり、風がびゅうびゅう音を立てながら草をそよがせている。
「見える?あれだよ。」
おっちゃんが指さす先には、岩だか石らしきものが見える。
ようやくおっちゃんに追いつくと、石の前に立っていたおっちゃんは満面の笑みでそれらを指さす。
「これは俺のご先祖のお墓だ。王族の墓だよ。」
え?おっちゃんのご先祖のお墓?
戸惑っていると、おっちゃんは私にお墓参りをするよう促す。私はますます面食らう。
「どうして私があんたのご先祖の墓参りをするの?ただの観光客なんだが…。」
私が口の中でもごもご抵抗しているのをしり目に、おっちゃんは早く早くと私を急き立てる。
よく分からないが、ここまで来たら観念する。おっちゃんに倣って、いくつもあるお墓の前にしゃがむ。あとで調べると、モシェシェ一世や王族のお墓らしい。
横を見るとおっちゃんは目をつむり、お墓の前で熱心に祈っている。どうやら、今朝の民族衣装の写真といい、ご先祖様のお墓といい、民族意識が高揚しているようだ。
仕方なく、私も知らない誰かのお墓に手を合わせる。何を祈っていいのかわからないので、お墓の中に眠っている見知らぬ人に、旅行の無事を頼む。
レソトが独立を勝ち得た記念すべき丘。この丘は昼間は小さな丘で、夜になると山に変わるという伝説がある。こんな丘の上の草原に、レソト王国の創立者たちが眠っているとは思わなかった(ガイドブック読めよ)。
おっちゃんはお墓周りの草をむしっている。私は晴れた草原を見渡しながら、レソト独立前夜、この丘にソト族の戦士たちが集まり、暗闇で息をひそめ戦った様子を思い描いた。
翌日。2泊3日の最終日。この日はレソトを出発する日なので、観光をする時間はほぼない。近場で観光できる場所もない。ホテルでカバンに荷物を詰め、南アに帰る準備をする。
おっちゃんは3日目もホテルに迎えに来た。「もう十分観光したから、今日は私を連れ回さなくてもいいよ」といったが、「飛行機の時間までまだあるから、首都を見せてやる」という。
首都マセル。本当に小さい首都だ。
車を走らせているうちにおっちゃんは知り合いを見つけたようで、ある建物の近くで車を止めた。建物から出てきた中年男性も、おっちゃんの姿を見つけて笑顔になる。おっちゃんは車を降りて、その男性と抱き合って再会を喜ぶ。なんだか長官だと私に紹介してくれる。政府の偉いさんだが、どうやら親せきらしい。
また車に乗り込んであちこち首都をめぐる。このころになると、私もおっちゃんがいい人だと分かっていて、田舎の親せきのおじさんの車に乗っているような気分になる。また別の場所で車を止める。おっちゃんが車を降りたのでトイレか買い物かと思い、後部座席でのんびりしていると、急にタクシーのドアが開いて小学生くらいのかわいらしい少女が顔を出した。私の顔を見ると満面の笑顔になった。
「こんにちは!はじめまして!」
突然、見知らぬ女の子が現れたので私がドギマギしていると、少女の髪につけた大きなリボンの後ろから、おっちゃんが笑顔でのぞきこんだ。
「うちの娘だよ。」
ええっ?
私は驚いて少女とおっちゃんの顔を見比べる。キラキラした目を輝かせた利発そうな少女だ。奥様に似たらしい美少女に、良い意味で言葉を失う。英語もとても流ちょうだ。どうやら学校が近くにあるらしく、授業があるからまたね、と言って車から去っていった。
娘を見送ったおっちゃんが車に戻った。運転席に座りながら、後部座席の私を振り向く。
「うちの娘は英語を勉強しているんだ。インターナショナルスクールに通わせたいんだけど、いい学校は授業料が高額だからね。」
私もうなずく。
「お嬢さんの英語はとても上手ですね。」
前を向いたおっちゃんは、誇らしげに目を輝かせた。
「だろ。うちの娘は優秀なんだ。努力家だしね。」
娘さんは、きっと家でも良い子なのだろう。おっちゃんは続けた。
「俺は良い教育を受けられなかった。英語も得意じゃない。自分の子供には良い教育を受けさせたいんだ。英語を勉強すれば、もしかすると俺よりももっといい仕事が見つかるだろうし、もっといい生活ができるだろう。海外へ行くことも出来るかもしれない。娘には俺よりも幸せになってほしい。そのために俺は一生懸命働いているんだ。」
私は背後からおっちゃんの横顔を見た。おっちゃんからは最初に見た胡散臭さは消え、娘の幸せを願う父親の顔になっていた。フロントガラスから、朝の温かい光が車内一杯に差し込んできた。
おっちゃんはマセル空港まで送ってくれた。あっという間の休暇終了だったが、親せきの家に来たような、のんびりとした時間を過ごすことができた。
おっちゃんは荷物を車から降ろすと、私に笑顔で右手を差し出した。
「またマセルに来たら俺を呼んでくれ。今度は俺の家に来たらどうだ?」
ありがとう。確かに、もうマセル周辺で見たい観光地はないな。次回マセルに来たら、おっちゃん宅に遊びに行くくらいしかやることがないだろう。墓参りも済んだし。
私はおっちゃんと握手しながら、この三日間を思い出して苦笑した。結局、おっちゃんのおかげでなかなか良い休暇になったよ。私はおっちゃんと再会を約して、空港の建物へ入った。