オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

コートジのおばちゃん秘書

 あの国で何を食べたとか、味がどうだったかということはたいてい覚えている。しかしまれにではあるが、何を食べたのかどんな味だったか、すっかり忘れてしまっていることもある。

 

以前の記事にも書いたが、私のコートジボアールでの上司は背が高くて色が黒く、顔もいかついので一見怖そうだった。しかし非常に頭が切れ、気配りを欠かさない人だった。人間は見かけで判断してはいけない。

 

この上司に面会するためにオフィスに行くと、入口に彼の秘書が勤務するスペースがあった。彼の秘書は2人いた。1人は眼鏡をかけたショートカットのおばちゃん。いつも愛想がよく、私を見ると「元気?」と声をかけてくれて、大変話しやすかった。もう1人は、常におしゃれな民族衣装に身を包んでいるものの、あまり笑顔の無いおばちゃんだった。私はこの愛想の無い秘書のおばちゃんが、どうも苦手だった。

 

秘書は2人揃っているときもあれば、片方しかいないときもあった。愛想の良い眼鏡のおばちゃん秘書がいるとホッとする。外出中の上司の戻りを待つ場合など、眼鏡のおばちゃん秘書とくだらない世間話をしているとあっという間に時間が経った。でも、もう1人の愛想の無いおばちゃん秘書と2人きりだと、全く話が弾まない。彼女はいつもむすっとして、不機嫌に見えた。

 

例えばこんな感じだ。上司のオフィスに報告書を持参した私が、愛想の悪いおばちゃん秘書に尋ねる。

私「○○氏(上司の名前)はいらっしゃいますか?」

おばちゃん「いないわよ。」

私「・・・。じゃ、何時ごろオフィスに戻るか分かりますか?」

おばちゃん「知らないわよ。」

私「・・・。」

 

あまりにもぶっきらぼうな態度なので、私は内心、(秘書なんだから、上司の戻る時間くらい把握しておけよ!)と思ったり、(「じゃあ報告書を預かっておくわよ」とか気を利かせたりできないのか!)と思ったりしていた。

愛想のないおばちゃん秘書は、最低限の会話が終わると無言になる。私がオフィスの片隅で待っていても、知らんぷりしている。そうなると室内は沈黙が支配し、気まずい空気が流れる。こういうとき、眼鏡のおばちゃん秘書だと「どう、アフリカの生活は?」とか、私に話題を振ってくれるのだが。

 

見ていると、この無愛想なおばちゃん秘書は眼鏡のおばちゃん秘書とは馬が合うのか、私そっちのけで楽しく二人で話をしていることもある。私は(ふーん、このおばちゃん、私のことが気に食わないんだな)と感じていた。

そういう状態だったので、愛想の無いおばちゃん秘書しかオフィスにいないときは、私は「じゃ、また後で来ます」とUターンして出て行くようにしていた。

 

ある日私が出勤すると、職場の入り口に大勢の人が集まっていた。彼らは口々に何かを話していて、今日は何か悪いことが発生しそうな不穏な雰囲気があった。

コートジボアールは独立後に2度、内戦状態に陥った。独立当初は一丸となっていた国民たちも、時間が経って特産品のコーヒーやカカオの国際価格が下落し失業や貧困が広がると、今までたまっていた不満を誰かにぶつけるようになった。不満分子を野党があおり、デモが頻発するようになって、社会不安が急速に拡大していった。

 

何だろう、今日は嫌な予感がする…と思っていると、急に群衆が逃げ始めた。れれっ?どうしたの?と思ってみると、入り口から武装した集団がなだれ込み、催涙弾を人々に打ち込み始めた。憲兵か軍か。私は悪いことをやっていないので、堂々としていよう…と思ったが、逃げ惑う人々の中で誰かに手首をつかまれ、引っ張られた。見ると、あの愛想のないおばちゃん秘書だった。必死の形相をしている。彼女もどうやら今、出勤してきたらしい。人々が四方八方に逃げるので、我々も足をもつれさせながら適当な建物の陰に逃げこんだ。

 

おばちゃん秘書と私は、その建物の陰にしゃがみ込んだ。(悪いことをやっていないが)軍隊に見つからないよう身を寄せる。おばちゃんは無言で息を切らせている。私も肩で息をしながら、呼吸を整えた。おばちゃん秘書は、豪華な黄色い民族衣装をまとっている。こういう日に限って、また派手な服を着てきたよな。

私が何か言おうとすると、おばちゃん秘書が機先を制した。

「あんた、逃げなきゃダメでしょ!」

なんで逃げなきゃいけないんだ。私は悪いことしてないもん、と口答えすると、おばちゃんは首を振った。

「まったく、とんでもない日だわ。今日は反政府デモがあるみたいだわね。」

そうか。それで軍だか憲兵だかが、こうやって人々が集まっているところを襲撃したわけだ。こういう情報は現地人から入手するのが一番確実だ。

おばちゃん秘書は、スカートの泥をはらって立ち上がった。

「朝から走って疲れたわ。あーあ疲れた。仕事どころじゃないわ」

私は笑ってしまった。今日に限らず、いつもあまり仕事していない(もっと言うとサボり気味だ)じゃないか。ま、確かにこの大混乱では、半日、いや今日一日、仕事にならないかもしれない。

 

コートジボアールでの生活はそんな感じで、政治不安にかかるデモやらドタバタが多かった。良いことも悪いこともあった。

 

そして帰国。この国で何年か過ごしたが、ついに私もこの地を去ることになった。

愛想のないおばちゃん秘書は、あの後、上司のオフィスで会ってもやはり愛想がなかった。いつものようにぶっきらぼうで、笑顔一つ見せなかった。彼女とようやく仲良くなれるのでは、と思ったのは錯覚だったのかもしれない。私を助けてくれたのは、たまたま虫の居所がよかったからなのかもしれない。

 

明日はコートジを去るという日。

〇月〇日に帰国します、と事前に上司に伝えてはいたが、オフィスを訪れるとタイミング悪く、彼はいなかった。私はがっかりした。

この上司は見た目はゴリラのようだったが、彼の内面にふれてから私は彼を尊敬するようになっていた。帰国前にぜひとも「お世話になりました」と挨拶をしたかったのだ。

 

しかも、その日は眼鏡のおばちゃん秘書が不在。愛想の悪いおばちゃん秘書しかいなかった。困った。私は、上司を待つべきか、Uターンして再訪すべきか迷った。逡巡していると、愛想の悪いおばちゃん秘書が話しかけてきた。

「あんた、日本に帰るんだって?」

(いつもぶっきらぼうなので、彼女のフランス語がこんな風に聞こえるのです)

そうだ、と答えると、おばちゃん秘書は黙り込んだ。いつもこうだ。もっと愛想よく会話ができないのか。

しばらく沈黙が続いた。私はやはり出直そうかと思い、ふと愛想の悪いおばちゃん秘書を見た。すると、おばちゃん秘書は泣いていた。

 

私は戸惑った。どうしたの?と尋ねると、おばちゃん秘書は泣きながら言った。

「なんで日本へ帰るんだ!お前が日本へ帰ったら、寂しくなるじゃないか!」

「…。」

私は返答に窮した。私が黙っていると、おばちゃん秘書も黙って涙をぽろぽろ流す。それを見ていたら、今までのいろいろなあれこれが思い出され、私は胸がいっぱいになった。

 

おばちゃん秘書は、何かを思いついたらしい。涙をぬぐうと、ごそごそと自分のカバンの中を探り始めた。そして、私の座っている椅子に自分の椅子を引き寄せると、カバンから取り出した何かを私の手に握らせた。

「これは昨日、家でこしらえたお菓子なんだけど…」

私の手に握らせたのは、小さな焼き菓子だった。上司の目を盗んで職場で食べようと思い、家から持ってきたんだが、お前にあげる。食べなさい。そんなことを、おばちゃん秘書は小さい声でつぶやいた。そう言っている間も、おばちゃん秘書は私の手を握って離さない。私は、焼き菓子を握った自分の手の上に、おばちゃんの黒くて温かい両手がかぶさっているのをじっと見ていた。

 

おばちゃん秘書がくれたお菓子をいつどこで食べたのか、どんな味だったのか、今となってはさっぱり記憶にない。ただ、おばちゃん秘書が上司の目を盗んで仕事をさぼり、お菓子を食べていたんだな~と言うことは、おばちゃんの涙とともに、いまだに覚えている。それを思い出すと笑えるし、心が温かくなる。

 

コートジに到着した当初は、誰もかれも黒く(当たり前だが)怖そうに見えたのだが、見慣れてくると美男美女も見分けられるようになり、黒人の方が青ざめたり恥じらって顔が赤くなったりするのも分かるようになった。アフリカで生活し、人間は中身と外見が必ずしも同一ではない、外見で判断してはいけない、ということが身に染みた。

最近はルッキズムが批判されているが、その人の心の温かさは、愛想のあるなしでは一概に判断できない。ということが分かったのは、自分にとっては良い人生経験だったと思う。