ニューヨークについては書くことがあまりないな、と思っていたが、書き始めてみると案外いろいろあったことに気づく。ここでは、国際連合で働いたことを少し書いてみる。
大学院の夏季休暇中に、私はニューヨークの国際連合本部でインターンとして働くことになった。
ところで「国連本部」という名称について。スイス・ジュネーブの「国連本部」も米国・ニューヨークの「国連本部」も、どちらも「本部」と名乗っているようだ。仕事でジュネーブの国連本部へ行ったが、職員はやっぱり「本部」と呼んでいた。一体どっちが本部なんだ。(話が脱線してすみません)。
どうして国連で働くことになったのか。それは、大学院で履修していた経済学の教授に「何事も経験なので、ダメ元で国連に応募してみたら?」と言われたからだ。いつか国連で働くつもりがあるなら、学生の間にお試しでやってみたらどうか?と言うわけだ。私は、国連勤務に対する強い希望があったわけではなかったが、色々考えた末、「ダメでもともと、やってみるか」と応募してみることにした。
中学二年の英語の教科書に、United Nationsという課があった。中二まで英語が不得意で興味もなかったが、国連にはいろいろな国籍の人がいて、何となく楽しそうに見えた。その時以来、「ちょっとでいいから国連で働いてみたいな」と思うようになった。
とはいえ、ポンコツの自分。そんなところで働けるわけもない。
忘れかけた夢だったが、まさか人生の今頃になって実現しそうな機会が巡ってくるとは。人生とは分からないものです。
しかし教授に勧められたからといって「はい、応募します!」と即答したわけではない。私の第一声は「国連なんて無理です。(どうせ落ちるにきまってます)。」
教授も「…」と無言になった(たぶん、『君の頭じゃ、そうだよね』と思っていただろう)。
しかも、教授は推薦状を書いてくれるわけでもなく、単に国際機関の人事担当部署の連絡先リストを持っているだけらしい。教授の推薦で必ず合格する保証があるなら応募するが、さほど頭のよくない自分が誰の後ろ盾もなく、徒手空拳で挑むんかい。あのなあ。全世界の優秀な学生と私が互角に戦えるわけないじゃん。日本の〇〇省出身者とかじゃないんだからさ。
付け加えると、日本の官公庁の職員が学位取得を目的に米国大学院へ入学する場合は、授業料や生活費等の金銭的補助をもらって勉強する。私の通っている大学院にも、日本の省庁から派遣された人が大勢いた。むしろ、私のように授業料も生活費も全額自己負担という学生の方が珍しいかも。つまり、世界と勝負する以前に、日本国内で負け組なんだよ。(←八つ当たり)
どうせ無理だどうせ無理だどうせ無理だ…と思っていたら、教授が
「でもエチオピアよりは近いし、通勤が楽だよ。その辺だし」という。
私は教授に、『世界銀行のエチオピア事務所で働きたい』と伝えていたので、ヤツはそれを覚えていたらしい。言われてみれば、国連がダメで世銀は合格する、という保証は全くない。しかも教授の言う通り、ニューヨークの国連本部なら大学院から電車で20~30分くらい。確かに「その辺」だ。エチオピアへ行くより断然近い。
ううむ。確かに通勤は楽だ。悩むなあ。(と心を動かされる)
国連のインターン募集期間は年明けすぐに始まり、すぐに終わる。国連の募集期間終了後、かなり後になってから世銀の募集が始まる。募集期間が大幅にずれているのだ。ということは。
教授と話し合った末、先に「ダメ元で」国連に応募し、国連が不合格だったら世銀に応募する、ということにした。世銀も不合格になる可能性はあるが、そしたら夏季休暇中にサマークラスを取ろう。そうすれば、まったく暇になることはないだろう。
こんな成り行きで国連に応募することになってしまった。こうなったら腹をくくるしかない。
まさに「ダメ元で」「思い出受験」してみるか。落ちたら「いや~国連受けたけど、やっぱり落ちちゃったよ、ははは」と笑えばいいんだから。しかし教授も「ダメ元で受けたら?」ってねえ。私は確かに優秀じゃないが、堂々と言われると傷つくなあ。
国連に履歴書やら志望動機書やらを提出したら、まさかの電話がかかってきた。「面接するので〇月〇日は空いているか?」ということだった。面接?てことは、書類審査は合格だったわけか。なんでだろう?
面接に進んだ、と告げたら、経済学の教授は驚いた様子だった。分かるよその気持ち。
しかしそのあと「でもどうせ合格しないだろう。ま、頑張ってね」的な口調で励まされた。ありがと。
国連本部での面接の日。「どうせ私は不合格だろう」と思って、あまり期待せずに面接に臨んだ。しかし面接では緊張しすぎて、自分が何をしゃべっているか分からなくなった(そして落ち込んだ)。
面接を終えて国連を辞すときに、風にひるがえる青い国連旗を見ながら、
「ま、いいや。私は頭の悪さをわきまえずに、一応、果敢に人生に挑戦したぞ。これも思い出だ」
と自分を慰めた。国連の砂を持って帰ろうかと思ったくらいだ。
国連前の各国旗もはためいていて、それを見たら中学二年の時の英語の教科書が脳裏に浮かんだ。あの教科書に導かれて、ニューヨークくんだりまで来たわけだ。三省堂さん、ありがとう。しかしもう二度と、国連本部に来ることはないだろう。私の手が届かなかった世界。
「世界よ、平和でいてくれ。私は何も貢献できないが」と感傷的になった。後ろ髪を引かれるように、のろのろと帰宅したことはいうまでもない。
しかし、なぜか合格した。(合格した理由は働き始めて分かった。)
私も驚いたが、経済学の教授も絶句していた。(ここまで私に期待してなかったか、と逆に笑ってしまった)。
どうせダメ、と言われても、とりあえず参戦してみるものです。
国連でのあれこれは、また別の記事に。