今日はインドネシアのタクシーについて記事を書こうと思っていた。
しかしまだ記事執筆作業中なので、別のことを書きます。
インドネシアの首都ジャカルタには、毎年多くの地方出身者が流入する。
多分東京も同じですよね。
イスラム教徒の断食明け大祭(レバラン)は、日本でいうところのお盆のようなもの。
日本のお盆同様、インドネシア人はこぞって帰省するのだ。民族大移動。
レバラン明けにそれぞれ帰省先から戻ってくるが、同時に「いっちょジャカルタで一旗揚げるか」という人も大量に首都へやってくる。
インドネシアの最低月給は、日本円にして約1万円。
地方であれば、教員や医師であっても月給1万円だ。
しかしジャカルタなら、駐車場で車の整理をしているおっちゃんでも3万円くらいもらえる。
なので、土地を持っていない農民たちは仕事を求めてジャカルタへ来るわけです。
ある晩、私は残業を終えたあと、歩いて帰宅することにした。
スーパーで買い物したいしね。
帰宅途中の道に、夜になると屋台がたくさん出る通りがある。
ここに、炭火をおこして焼き鳥(インドネシアのサテ)を焼いている屋台があった。
疲れていて「今日は夕飯の支度が面倒だ」と言うときに、サテとロントン(コメを搗いた餅のようなもの)を買って帰ることもあった。
数週間前に、この焼き鳥屋で鶏肉サテ5本、ヤギ肉サテ5本を焼いてもらい、ロントンと一緒に買って帰った。
あの時はサテを焼いているのが中年のおじさん、屋台でサテを包んでくれるのがおばちゃんだった。
今日は久々に買おうかな。
と思って屋台の前を通ると、今日は店にいるのは若いお兄さんだった。
ということは、この屋台には所有者がいて、先日の中年夫婦や今日のお兄さんは雇われ店員なんだろうな。
私はいつものように「サテ10本ちょうだい」と頼んだ。
お兄さんは炭火をおこし、サテを焼き始めた。
サテを焼いている間、私が所在なさげに待っていると、お兄さんは私に椅子をすすめてくれた。
気が利くねえ。
私はプラスチックの安い椅子に座り、お兄さんが炭火で焼き鳥を焼くのを眺めていた。
「奥さん(Nyonya、マダム?)、シンガポール人かい?」
お兄さんが尋ねてきた。
私はnyonaと言われるのが初めてでびっくりした。
たいていのインドネシア人は私にIbu(ミセスという意。お母さんという意味もある)と呼びかけるからだ。
お兄さん、私をシンガポール人と思ったのか~。(シンガポールは華僑が多いですよね)
私のインドネシア語、上手じゃないからなあ。
「違うよ、日本人だよ。」
というと、お兄さんはちょっと驚いたように目を丸くする。
日本人を見たことがないらしい。
そのお兄さんとしゃべっていたら、屋台の裏から、目深に野球帽をかぶった若い男性が出てきた。
「お姉さん、ロントンは要る?」
このお兄さんの相方か。
こっちのお兄さんが焼き鳥を焼き、野球帽の兄さんが焼き鳥を包んだり、お金の受け渡しをしたりするわけだ。
私はロントンもつけてね、と頼んだ。
鶏肉サテ10本で20,000ルピア(約149円)、ロントンは5,000ルピア(約37円)。
サテが焼きあがる前にお金を払ってしまおう。
細かいお金がないので、大きなお札を出す。
すると野球帽のお兄ちゃんは、困ったように大きなお札を見た。そして、
「おつりを探しに行ってくるね」
と言って暗闇に消えた。
私はサテを焼いている兄ちゃんの方へ向き直った。
すると兄ちゃんは、
「あれ、僕の弟なんだ」
と嬉しそうに言う。
へえ、そうなんだ。この前は夫婦でサテを焼いていたが、今度は兄弟で焼き鳥屋か。
兄ちゃんはサテを焼きながら、私に身の上話を始めた。
ジャワ島の田舎の村(名前は忘れた)出身なのだが、両親は雇われ農民で、お金持ちの所有する田んぼを借りて稲作をやっていたらしい。
兄ちゃんが小さかった頃、お母さんが亡くなり、最近お父さんも亡くなった。
地方にいても仕事はないし、家が貧乏で田畑を持っていない。
助けてくれる人もおらず、食べていけなくなった。
仕方ないので、ジャカルタへ上京して仕事を探そうと思ったら、弟が「兄ちゃんが行くなら僕も」と言ってついてきたという。
仲のいい兄弟だなあ。
私はなんだか心が温かくなった。
「良かったねえ、大都会にいても兄弟一緒なら心強いよね。弟、何歳?」
と私は聞いた。
すると、兄ちゃんは急に恥ずかしそうな表情になった。
「え…弟の年齢を言ったら、マダムは絶対怒るよ。」
「怒る?私が?なんで?怒らないよ、言ってごらん」
私は上機嫌で兄ちゃんに言った。
すると兄ちゃんはあきらめたのか、小声で答えた。
「Sembilan」
そっか、19歳か。私は暗闇でにやにやした。
「じゃあ、あなたの弟は勉強が嫌いだったのかな?でも、大学なんて行きたいときに行けばいいのよ。
勉強したいときに勉強すればいいんだから。働いてお金貯めて、ね?」
私がそう言うと、焼き鳥屋の兄ちゃんは不思議そうな顔をした。
「大学?」
兄ちゃんの表情を見て、私は戸惑った。
え?私、何か間違ったこと言ったかな?
も、もう一度確認しておこう。
「あなたの弟、何歳って言ったっけ?もう一度教えて」
すると兄ちゃんは再度、小さい声で言った。
「Sembilan」
スンビランか。スンビラン。スン…?
スンビランって、9?
9?!
9ですってえ?
私は勝手に「19」(sembilan belas)と思い込んでいた。
だってこんな夜の遅い時間に焼き鳥屋で働いているのが、まさか9歳とは思いませんよ!
19歳だと思うでしょ?
深く野球帽をかぶっていたので、まさかそんなに若いとは思わなかったよ!!
私は瞬間湯沸かし器なので、そこでカーっと頭に血が上ってしまった。
「どうして9歳の弟を連れてジャカルタに来たんだ!」
「弟はまだ小学生でしょう!働かせちゃダメだよ!」
「小学校はやめさせちゃいけないよ!」
「大学はいつでも行けるけど、小学校はそうはいかないんだ!」
「今からでも弟を小学校へ戻しなさい!」
私が烈火のごとく怒り、わ~~~っとまくし立てたので、兄ちゃんは小さくなってしまった。
兄ちゃんは私がこれほど怒ると思っていなかったようだ。
半分驚き、半分戸惑ったような、あっけにとられた表情をしていた。
私は兄ちゃんが黙りこんだことに気づき、矛先を収めた。ちょっと言い過ぎたかしら?
兄ちゃんは私が黙ったので落ち着いたのか、一呼吸置いて私の顔を見た。
そして、少しニヤッと笑った。
「怒らないって言ったじゃん」
あ、そうだね。
いや、こりゃ誰でも怒るでしょ。
この年齢で働かざるを得ない貧しい家庭の子どもであることは大変気の毒だ。
でも、せめて小学校は終わらせた方がいいよ。
ということを私は言いたかっただけなのだが、この国の構造的貧困や社会のセーフティーネットの脆弱さ、弱者である子どもにしわ寄せが行くこと諸々考えたら、腹が立ってしまったのだ。
兄ちゃんに腹が立ったのではなく、社会の不条理に腹が立ったのだ。
(兄ちゃんには大迷惑でしたね)
インドネシアは石油や天然ガスを産出するので、それで潤っている超超超裕福な家庭がゴロゴロある。
かたやスイスやパリに家を何軒も持ち、かたや小学校を終えず働く子どもがいる。
弟が9歳ってことは、こうやって大人ぶっている兄ちゃんも、せいぜい中学生か高校生くらいなんだろう。
二人とも、日本なら児童福祉施設に入る年齢だ。
だが、インドネシアではそういう社会弱者にまだ手が回っていない。
兄弟二人なら助け合って何とかやっていけるだろう、と思って上京してきたんだろうな。
その後、サテが焼き上がった。
弟も戻ってきて、おつりを渡してくれた。
彼は手早くバナナの葉っぱでサテとロントンを包むと、ビニール袋に入れて私に持たせてくれた。
私は、街灯の光を頼りにもう一度弟の顔を見ようとした。
しかし弟はほかの用事があるらしく、また暗闇に消えた。
屋台に残った兄ちゃんの方に礼を言って、私は帰宅した。
その後、しばらくしてまたあの焼き鳥屋の屋台の前を通りかかった。
あの兄弟はもういなかった。
今頃はジャカルタの大都会の片隅で、兄弟力を合わせて生き延びていることを願っている。