オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

ミルウォーキーの市役所職員

 

アメリカの大学院で政策研究のクラスを履修したときのこと。

 

アメリカの大学や大学院を受験するなら、社会人経験者が圧倒的に入試で有利だ。

大学が多様性を重視しているからなのだが、そのおかげで同じクラスを履修している学生の背景は様々。

自分の知らない分野の話を聞くことが出来る。まさに異業種交流だ。

 

国籍も年齢も、性的志向も経歴も考え方も、みな異なる。

戸惑うこともあるが、慣れれば楽しい。

 

政策研究の授業は、色々なバックグラウンドを持った学生が履修していた。

みんなわざわざ時間とお金をかけてまで大学院に来ているのだから、社会人生活で何か疑問にぶち当たったとか、自分のステップアップ、キャリアアップなど、今までの自分に足りないことを求めて大学院に集まっているのだ。

 

その日の授業のテーマは何だったか覚えていない。

しかし、その日はなぜか議論が白熱した。

ある女性の学生が一人、そのテーマについて手を挙げた。

彼女は自分の意見を発表した。

 

その彼女のコメントについて、教授や別の学生が質問をした。

彼女は丁寧にそれに回答し、その回答はなぜ彼女が大学院進学を志したか、にもふれることになった。

 

彼女(とりあえずカマラにしておく)は、ウィスコンシン州ミルウォーキー市の市役所職員だった。

カマラの働く町に、多くのモン族がラオスから移民してきた。

アメリカは移民の国だ。

毎年、何万人もの外国人を米国社会へ受け入れる。

英語の分からないモン族は米国と生活習慣も異なり、あっという間にアメリカ人住民と生活トラブルを引き起こした。

 

カマラは市役所職員として、新しくやってきた移民たちがアメリカ社会に適応できるよう、東奔西走した。

ゴミ出しのやり方を教える、夜間の騒音に気を付けるなど、移民への生活指導は細かく実施する必要があった。

しかし、モン族の移民たちは全く英語が分からず、コミュニケーションが取れないまま、カマラは途方に暮れた。

アメリカ人住民からの市役所へのクレームはやまず、カマラや同僚たちは窮地に立った。

 

「どうして、ラオスからの難民がアメリカに来たのかと言うと、歴史はベトナム戦争にさかのぼるの。」

 

カマラの個人的な話にクラス中が耳を傾ける中、彼女は静かな声で説明し始めた。

カマラの話は簡潔だが、力強いものだった。

こういう、『なぜ自分は公共政策の勉強を目指したのか』という個人的な原動力について直接ふれることが出来るのも、いい時間なのではないかと私は個人的に思った。

 

1965年。

ベトナム戦争を戦うため、アメリカはインドシナ半島へ進出した。

ベトナムのゲリラの攻撃は神出鬼没で、米軍は疲弊した。

 

モン族は、ラオスベトナムなどの山岳地帯に広範囲に居住する民族だ。

彼らは長いこと、ベトナム共産主義政府に弾圧されていた。

モン族は、米軍をひそかに支援することにした。

アメリカがベトナム戦争に勝利した暁には、モン族が自由を得ることが出来るよう、米軍と約束を取り付けた。

 

モン族の協力で、米軍はベトナム兵の知らない尾根や道を通って作戦を展開することが出来るようになった。

モン族は大活躍だった。

しかし、ベトナム戦争は1975年、米軍の敗北で終わった。

 

米軍がインドシナ半島から引き上げた後。

米軍への協力者であるモン族がどのような状況に陥ったか、想像に難くない。

米国政府は、モン族を特別に米国へ移民させる措置をとった。

 

その結果が、カマラの町に大量に移住したモン族たちだった。

カマラは、ベトナム戦争について詳しいことをほとんど知らなかった。

そこで、本を読んだり、ベトナム戦争で何が起こったかを学んだりした。

長く市内に居住するモン族の中で、英語を学習して自分たちの歴史を語れるようになっているモン族住民も出てきた。

 

「今までは、『単に迷惑な外国人住民だ』と思っていたけれど、彼らの歴史を知って考えるようになった。米軍への協力者である、というだけではなく、ある社会で抑圧されてきた住民でもある。彼らの置かれた状況を知らずに、アメリカ的物の見方だけで判断してきたことに気づいたのよ。」

 

カマラに、自分の家族のことを話してくれたモン族女性は、こういう経緯で米国に来た。

ベトコンから逃げるため、銃弾の降り注ぐ川に母と弟と3人で飛び込んだが、隣で泳いでいたお母さんが狙撃兵に銃撃され、水中に沈んだこと。

母を助けている余裕は自分にはなかったこと。

泣きながら対岸に泳ぎ着き、弟の手を引いて走って逃げたこと。

どうやってここまで来られたか分からないが、気づいたら米国行きの船に乗っていたこと。

 

自分がどうやって生き延びてこられたか、まったく覚えていない。

ただ、どうにか生きて、いつの間にか「安全な国」アメリカへ来ていた。

 

そういうモン族住民の来し方を聞いたカマラは、考えるところがあった。

アメリカの責任も感じたし、彼らを米国へ受け入れたからには、より良い市民サービスをしなければならないとも思った、とカマラは言った。

それが、彼女が市役所を辞めて今、大学院で公共政策を学んでいる理由だ。

 

アメリカ住民の生活スタイルに合わせるのはもちろん必要だが、後から来た移民だって生活する権利があるわけだ。

彼らにも彼らの生活習慣や文化がある。

英語の分からない移民だって大勢いるだろう。

各市民に合った市役所の支援が必要なはずだ。

カマラはそう思い、どうやったら移民とアメリカ人住民を融合させられるのか、日々悩んできた。

 

大学院で公共政策を学び、ミルウォーキーに戻ったら、より良い市民サービスを提供できるためにどうすればいいか、考えるつもりだという。

話し終わったカマラの顔は輝いていた。

 

自分の隣に座っている学生が、どんな思いを持って大学院へ進学することを決意し、ここへたどり着いたか。

そういうことを知れるチャンスは、とても貴重なことのように思える。

その人の人生観や、体験が色濃く反映されるものだからだ。

私は、彼女が良い市役所職員になることを想像していた。

他の学生も、カマラの話を聞いて感動していた様子だった。

 

ラオスのモン族については、私は全然知らなかったので、カマラの話は大変面白かった。

米軍協力者であるモン族を特別に移民させるのはいかにもアメリカらしい、と思わなくもなかったが、モン族の苦境にふれ、奮い立つカマラもアメリカ人らしく、好感を持った。

 

アメリカ人の良さは、社会を良くしようと常に努力し続けることだと私は思っている。

直情径行かもしれないが、理想に近づけるため現実的に努力する人たちのことを、誰もバカにすることはできない。

素朴だが「他人のために力を貸そう」と思うアメリカ人がいるからこそ、アメリカ社会は試行錯誤しながら前に進んでいくんだろうなあ。