オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

言語と体験

 

今朝、小雨の降る庭を見ながら「そろそろうちの庭もmowした方がいいんじゃないか」と思った。

雑草が元気に繁茂していて、伸び放題になっていたからだ。

 

そこでふと、「mowって何だっけ?」と考えた。

生い茂る雑草を切る?刈る?取る?

Mowと考えると、両手で何やら持って動かすジェスチャーまで無意識についてくる。

 

そこではたと思い当たった。

Mowは英語だ。Mowerが、私がやろうと思っている作業をこなしてくれる機械だ。

頭の中で該当する日本語を思いついたが、念のため辞書を引く。

Mowは「草を刈る」と翻訳されていた。

Mowerは草刈り機だ。

 

子どもの頃、両親は庭いじりを良くやっていたが、我が家の庭には野菜や花を植えていた。

私が草刈り機で芝生を刈ることはなかった。

なので、「草刈り機で草を刈る」ことは、日本語の単語としてはもちろん知ってはいるが、それに付随する体験は自分の生活に存在していなかった。

 

高校卒業後、私はアメリカの大学へ入り、アルバイトを始めた。

多くのアメリカの中高生及び大学生にとって、夏の草刈りのアルバイトは一般的だ。

誰でも一度くらいはやったことがあるはずだ。

 

私もほかのアメリカ人の若者同様、草刈りのアルバイトは何度もやった。

ルームメイトの家で、芝刈り機を使用して庭の草を刈ったことが何度もあるし、夏休みのアルバイトとして他人様のお庭の草刈りや水やりをやって小銭を稼いだ経験もある。

 

つまり、私の中では「草刈り」の言葉と実体験は、日本語では存在しないものだが、英語ではmowerを使ってmowする体験を何度もやっているのだ。

 

なので、今朝がたに雨の降る庭を見ながら「草が繁茂しているなあ~」と思い、次に「mowした方がいいな」と思ったのは、その行為を日本語の環境でやったことがなく、英語の環境でならやったことがあるので、とっさに英単語の方を思いついたんだろう。

 

ここまで考えてみると、体験が言語習得に強く結びついているのが理解できるような気がしますね。

 

中国語の通訳をやっている友人から聞いた話。

中国在住日本人同士で集まる際、もちろん日本語で会話を楽しむのだが、中国語交じりの日本語会話になることがよくあるという。

どういうことかというと、日本語ではうまく言い表せない単語あるいは行為があるとする。

しかし中国語なら「〇〇する」という、その行為を示すどんぴしゃりの単語がある場合がある。

そうすると、その中国語単語を日本語に翻訳せずにそのまま使用するというわけです。

 

中国語を普段使用して生活しているので、誰しもその単語を知っているし、その単語と経験が結びついているので意味も分かる。

同じグループ内で使える符牒のようなものですね。

 

これも、私の「mowする」と同じなんでしょう。

熟考すれば「草を刈る」という日本語がひねり出せるんだけど、その行為自体を日本語でやっていないので、日本語訳がとっさに浮かばない。

 

ここでまた別の問題がある。

そうやって海外で生活していた人は現地での体験と単語が結びついているので、日本帰国後もその単語が先にぱっと思いつき、日本語翻訳がなかなか思い出せないことがある。

 

私も友人と話していてたまにやってしまう。

その時たまたま思いついたのがスペイン語だとかフランス語だとかで、なかなか日本語が思い出せない。

「あれだよあれ」

と、もう少しで思い出せそうな感じなのだが、どんぴしゃりの日本語が出てこない。

周囲の日本人に助けを求めても、その人がそのスペイン語の単語が分からなければ私の意図するところが分からないわけです。

こういうことが重なってくると、「変な人」という烙印を押されるようになる。

私は時折、「自分の分かる言語がすべて分かる友達がいるとありがたいなあ」などと思ったりします。

(そんな都合の良い友人はいないのですが)

 

こういうことを年中やっていると、家族は私が頻繁に使う単語を覚えてくれるようになる。

今朝のmowのように、私が「mow」と言いながら両手で何やら作業をするのを見て、「どうやら草刈りのことを言っているらしい」と推測してくれたりします。

(ここまで書いていて、自分の言語能力の低さに情けなくて笑ってしまいますね。)

 

面白いのは、その言語圏で生活していると、そこで使われる単語のようにその行為が見えてくること。

例えば「食べる」という行為がある。

英語圏で生活していると、食物をフォークで取って口に運び咀嚼し、嚥下する一連の行動がeatに見える。

英語圏で鹿を見たとき、「あ、あそこにdeerがいる」ように見える。

(こんな体験は私だけですかね?)

 

昨晩、インドネシア語の辞書で調べ物をしていた。

このところしばらくインドネシア語をしゃべっていないので、「そうそう、こういう単語だった」という記憶のリフレッシュ作業でもあった。

 

突然、「卵」って何て言ったっけ?と気になり、基本的な単語を忘れるなんてと辞書を繰っていたら、telurという単語だったことを思い出した。

その単語を見た途端、ナシゴレンの上に乗っかっている薄い黄色の錦糸卵や、ジョグジャカルタのグドゥの茶色い煮卵を思い出した。

あれは卵じゃなくてtelurだなあ。

言語と体験だけじゃなく、言語と物も結びついているものなんですね。