オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

パキスタン

 

アメリカの大学院へ通っていたころ、パキスタン人の友人がいた。

 

日本人であれば、海外の大学院へ入学することはさして珍しくない。

パキスタンを貶めるわけではないが、女性の地位がいまだに低い国もたくさんある。

学校にすら行かせてもらえない女の子たちは、世界、特に途上国には大勢いるのだ。

 

そういう中で、女性であるにもかかわらず良い教育を受けさせてもらえるということは、彼女はパキスタンでそれなりの家柄の出身なのだろう。

知り合ったときに、私はそう思った。

 

そのパキスタン人の留学生、マイラとは、お互いに似たような専攻だったので仲良くなった。

彼女は、パキスタンの人々、特に女性がどうすれば教育を受けられるようになるかに興味を持っていた。

 

渡米直後、彼女は知り合いの家に身を寄せていた。

しかし、大学院に学生寮があることが分かり、彼女はさっそく申し込んだ。

マイラから話を聞き、私も学生寮のウェイティングリストに載せてもらった。

私が寮の空き部屋をあてがわれるまで長い時間がかかったが、マイラは運よく、退学した学生の部屋に入ることができた。

 

そうなると、マイラは私を部屋に呼んでくれるようになった。

部屋でくつろぎながら、2人で学校のこと、生活のことなど、おしゃべりをするようになった。

 

彼女は、海外で一人暮らしをするのが初めてだった。

そういうところも、パキスタンの上流家庭のお嬢さんであることが垣間見えた。

 

知り合って最初の頃、マイラはパキスタンに夫がいると私に言った。

そうか、既婚者か。

ま、大学院生くらいの年齢なら、おかしくはない。

 

そんなある日、いつものように私はマイラの部屋でくつろいでいた(他人の部屋ですが)。

最初は『あの教授の授業、面白かったよ』なんて話をしていたが、色々話をしていくうちに、マイラが突然、私に尋ねた。

 

「ねえねえ、ちょっと聞きたいことがあるの。働いたこと、ある?」

 

私は戸惑った。

マイラは何を言っとるんだ?

働かなければ、大学院へ進学するお金を貯められないじゃないの。

 

私は疑問も抱かずに答えた。

「うん、もちろん。だって、働かないでどうやって進学できるわけ?頑張って貯金してきたんだよ。」

 

すると、マイラは感心したように私を見た。

「へえ、そうなんだ。日本人って何歳から働くの?大学を卒業してから?」

 

んなわけない。

日本では高校生くらいから誰でもアルバイトをしている。

パキスタンとは社会のルールが違うのかな?

私はマイラに、自分は高校生の時から働いていると伝えた。

 

「へえ、今までどんな仕事をしたことがあるの?教えてくれる?」

マイラは熱心に聞いてきた。

 

私は自分が高校生の時にやったアルバイトのあれこれを話した。

その後、渡米するまで働いていた会社のことを話した。

 

マイラは興味深そうにその話を聞き、そしてヒーローでも見るような目で私を見る。

「そっか、働いたことがあるんだ!すごいね!」

そう言われると、むしろ私の方が不思議に感じる。

「どうしてそんなことを聞くの?」

 

すると、マイラは遠慮がちに言った。

「実は、あなただから言うけど、私は人生で一度も働いたことがないの。働いたことがあるなんて、うらやましい。」

なんですって?

人生で一度も働いたことがない?

 

私が驚きで次の言葉が出てこないのを見ると、マイラは慌てて付け足した。

パキスタンにはカースト制度があってね。私はカーストの一番上の出身なの。だから、労働する必要が無いのよ。」

 

そうか。そうだったのか。

私は急に彼女がうらやましくなった。

 

「へえ、いいねえ。働かなくても生活できるなんて、うらやましいなあ~」

そう言うと、マイラは暗い表情になった。

 

「そんなことないよ。働かなくてもいい、って地獄のようだよ。」

 

そして、マイラは自分のパキスタンでの生活を説明し始めた。

彼女はカーストの最上層出身で、パキスタン最高峰の女子大を卒業した。

同じカーストの男性と見合いをし、結婚をした。

 

彼女はカースト最上層なので働いて収入を得る必要はない。

家事をやる必要もない。

掃除、料理、洗濯、買い物、何でも下のカーストである使用人がやってくれる。

 

「でも、どうやって収入を得ているの?旦那さんは働いているんでしょ?」

と私が尋ねると、マイラは首を振った。

使用人たちが畑を耕し、収穫物を販売したお金を自分たちに納めてくれる。

彼ら使用人が自分たちの代わりに労働してくれるので、カースト最上層である自分たちは労働しなくても収入がある。

 

へえ、すごいなあ。

しかし、働かなくても収入があるとなると、旦那さんとマイラは毎日何をするの?

 

それを尋ねると、マイラはうんざりした表情で言った。

「同じカーストの友達夫婦がいるから、毎日彼らの家に行ってお茶したり食事したり。それだけ。」

同じカーストの友達も、みな同じような生活をしているのだという。

 

もちろん、友達の家に食事に行っても、友達夫婦が食事の支度をするわけではない。

友達宅で働く使用人が食事を作り、食べ終わった食器を下げ、片づけをするのだ。

友達夫婦及びマイラ夫婦は、一切何もする必要がない。

 

マイラは暗い顔で続けた。

自分たち夫婦は「何もしなくてもいい」「ただ存在すること」だけを期待されている。

働くことは下層階級のやることだとされている。

会社で働くことも、農作業をやることも、家事をやることも、育児をすることも、「最上層のカースト者のやることではない」というわけだ。

 

なので、自分は「働く」「働いて収入を得る」ということが、どういうことなのか一度も体験したことがない。

 

マイラは、『あれもやってはいけない、これもやってはいけない』という生活に苦しんだ。

「何をするために私は生まれてきたんだろう?」と長年自問自答してきた。

 

自分の人生はこれでいいのだろうか?

そんなことを長い間、悩んできた。

 

そして、パキスタンを出て、違う世界を見ようと思ったのだという。

しかし、マイラの決心を夫が理解することは難しかった。

 

「夫は、私をパキスタンに戻そうとしているのよ。

大学院が終わったら、パキスタンに必ず帰るように言われているの。」

 

マイラの夫は、『一生安泰なパキスタンでの生活を捨てて、どうして海外で苦労する必要がある?』という考えなのだとか。

そりゃそう思うよねえ。

 

マイラの悩みはまだあった。

夫はどうやらアルコールに依存しているらしかった。

驚いた私が、

パキスタンってイスラム教国だから、お酒は飲めないでしょう?」

と聞いたが、そうではないらしかった。

 

何もしなくていい、何も期待されない生活は、日々の時間つぶしが大変で、精神的にもストレスがたまる。

その生活を逃れるためにお酒を隠れて飲むようになり、いまやお酒がないと生活できなくなってしまったのだという。

 

「ふーん。旦那さんも人生で何かやりたいことを見つけられたらいいね。」

そういうと、マイラはふうっとため息をついた。

「やることがない毎日って、本当に窒息しそうな気持になるのよ。夫の苦しみも、私は分かるの。」

 

話題を変えるように、マイラは顔を上げて言った。

「私は、一度でいいから働いてみたいの。パキスタンだと人目もあって、私が働くことは許されないでしょ。だから、アメリカにいる間に働いてみたい。」

 

私は今日、何度目かのため息をついた。

色々あるもんだなあ。

私なぞ、『働かなくても収入が保証される』となったら、万歳だ。

 

休みが1週間くらい取れると「何をしようかなあ?」とウキウキする。

しかし、一生働かなくてもいいとなるとかえってつらいのかも。

人間は働いて評価されたり感謝されたりすれば、嬉しいものだ。

労働で疲れて空腹になれば食事もおいしいし、夜もぐっすり眠れる。

やっぱり人間は働くべきなんだろうなあ。

 

その後、マイラの旦那さんは何度かアメリカに彼女を尋ねてきた。

見た感じは優しそうな旦那さんなのだが、マイラに笑顔が戻ることはなかった。

お酒をやめるようマイラが懇願しても、彼の生活態度は変わらなかったのだ。

 

自分たちはこういう上層カーストに生まれた。

だから、この生活を(嫌でも)甘んじて受けるしかないじゃないか。

社会とはそういうものだ。

大学院を早く辞めて、パキスタンに戻ってくれ。

どうしてそんなにしてまで、働きたいなんて言うんだ?

働くなんて、下賤の者のやることじゃないか。

 

夫の言うことは、いつも同じだった。

社会を変えたいと思うマイラとは、まったく平行線だったらしい。

 

『働かなくても生活できる、という生活に満足できる女性を選んだ方がいい。私はそうじゃないから』

というのが、マイラが最終的に離婚を決断した理由だった。

 

大学院卒業後、マイラは初志を貫徹し、イギリスに本部を置く国際機関に就職した。

今もパキスタンには戻っていない。