オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

世界のゆくえ

 

アフガニスタンから米軍が撤退した。
米軍がアフガンに駐留するようになった原因は、2001年の米国同時多発テロだ。
そのテロが発生したのは9月11日。
もう20年経つのですね。

 

2001年9月11日、火曜日。
私はニューヨークにいた。
いつものように普通の朝を迎えた。
多分この日この時、NY市内にいた人(特にマンハッタンにいた人)は、伝えたいことが山ほどあると思う。
この日何が起きたかについては、ネットや報道で皆さん情報を得ていると思うので、私の体験談は個人的視点から書かせていただく。

 

火曜日の朝、ある建物に入ると、そこにあったテレビを数人のアメリカ人が視聴していた。
なんだなんだ?と思い、私も彼らに加わった。
画面には、見覚えのあるビルが煙を上げていた。
あれ?このビルって、その辺のビルじゃなかったっけ?

 

ほら、マンハッタン南部にある、あのビルだよ。
私は前の週末にウォール街とかマンハッタン南部を観光した。
世界貿易センタービルは混んでいたか何だかで、登らなかったのだ。
来週行けばいいやと思っていた。

 

事故が起きたんだろうか?
私はしばらくそこに立って、ニュースキャスターが何と説明するか耳を傾けていた。
男女2名のキャスターがいたが、彼らの口は重かった。

 

その時は、1機目がNYのビルに突っ込んだばかりだった。
ペンシルバニアでも飛行機が行方不明になったとか、そんなことを言っていた。
しかし、詳細の情報はつかんでいない様子だった。
このとき、テロの全体像が分かっていた人は誰もいなかっただろう。

 

女性キャスターが苦しそうに口を開いた。
「I don’t know what’s going on…」

何が起きたか分からない、ってどういうこと?
私は周囲のアメリカ人の表情をこっそり見た。
皆、眉根をしかめて難しい表情をしていた。

 

私はしばらくニュースを見ていたが、有用な情報を得られそうにもなかったので、あきらめてそこを離れた。
多分、その時その場にいた人は、何が起きたか全然分からなかったに違いない。

 

シティバンクへ向かった。
前日、口座開設したのだが、キャッシュカードを作る機械が壊れていた。
「明日カードを作ってあげるから」と言われ、取りに行った。

 

シティバンクの前には開店前から12,3人くらいの客が待っていた。
開店と同時に、どどっとみんなで店内に入った。
入ったと思ったのもつかの間、開いたばかりの銀行のシャッターが次々に降り始めた。
急に暗くなるシティバンク店内。

 

「ほらほら、みんな帰った帰った!今日は閉店だ!」
と言って、銀行員が客を返し始めた。
別の黒人銀行員は叫ぶ。
「これはアフガニスタンのしわざだ!」

 

私は、暗くなった店内で他の客たちと顔を見合わせた。
店の外は、救急車やパトカーが何百台もわんわんとサイレンを鳴らしながら走り回っている。
まるで戦争だ。

 

この状況では、シティバンクが臨時休業するのも当然だ。
私は銀行の前で待っている間にアメリカ人客たちと話をし、今朝、NYで何が起こったか大体聞いていた。
客はしぶしぶと帰り始めた。

 

「ほら、君も帰った帰った!」
ヒスパニック系の銀行員が、一人だけ帰ろうとしない私を店外に押しやろうとした。
残った客は私一人だったが、帰るもんか。
「キャッシュカードをもらいたいだけです。もらったら帰ります」
そう言うと、銀行員はあきれたように私の顔を見た。
「外の騒ぎ、聞いてないの?」

 

いや、カードさえもらえば帰ります。
カードが無かったら、お金をおろせないでしょ。
私は粘った。

 

この時の判断は正しかったと思う。
この日の後、何か月にもわたってマンハッタンの社会経済はマヒした。
銀行も開いたり開かなかったりして、ATM頼みだったのだ。
キャッシュカードが無かったら困っていたと思う。

 

すると、一部始終を見ていた黒人銀行員が、「カード発行だけならやってあげるよ」と助け舟を出してくれた。
ヒスパニック系銀行員はさっさと帰りたかった様子で、同僚が面倒な客を対応してくれることになり、ホッとしたようだった。

 

シャッターが下り、店内が真っ暗になった中、黒人銀行員と私だけになった。
机の電気スタンドを付け、自分の机の横に私を座らせ、キャッシュカードを作ってくれた。
この黒人兄ちゃんは、ナイジェリア人だった。(アフリカには足を向けて寝られない)
これはテロ攻撃だ、アフガニスタンにやられたんだ、と彼は何度も言っていた。

 

カード発行はすぐに出来た。
私はシティバンクを後にした。

 

記事が長くなるので、昼間の話は割愛させていただきます。
朝から何百台も走り回っていたパトカーや救急車はさらに増え、一日中市内を走り回っていた。

 

この日は、通りすがりの人同士で、「何が起きたか、今どんな状況か、ほかの地域でもテロが発生したようだ、等」、話し合ったり新しい情報を入手したりする姿があちこちで見られた。
なので、私もこの日一日が終わるまでには、ニュースを見なくても何が発生したか大体つかんでいた。

 

余談だが、午後4時くらいに日本の家族へ電話した。
なるべく早く家族に安否を知らせなくては、と思ったのだ。
世界貿易センタービルで一気に多くの固定電話が使えなくなり、電話線回路が急速に不足した。
電話回線不足に対応するために公衆電話の本数を減らしたようで、後ほど多くの公衆電話が使用不可になった。

 

「私は無事だからね!生きているから、心配しないでね」
と言うと、電話に出た母は、不思議そうに言った。
「え?何かあったの?」

 

それを聞いて、むしろ私は安心した。
という事は、母はまだニュースを見ていないらしい。
NYが今、どんな状態か知らないようだ。
他の人(私の友人とか)にも、聞かれたら私の無事を知らせるよう依頼して、私は電話を切った。

 

日本に帰って友人や同僚から聞いた話を総合すると、飛行機がNYのビルに突っ込んだということを、この時間すでに把握していた人が多かった。
現場にいる人が一番情報が少なく、遠くから見ている人が全体像をつかんでいるのでしょうね。

 

この同時多発テロは、多くの人の心に傷を与えた。
友人や家族を失った、という人にも多く会ったし、生き延びたが恐怖でトラウマを抱えた人もいる。

 

アラブ系(イスラム系)住民に対する差別的暴言や暴力も発生した。
恐怖で外出できなくなったアラブ系主婦たちに同行し、子どものお迎えや買い物につきそうボランティアも募集されていた(私は応募した)。
多くのイスラム系住民が口をそろえて言った。
「第二次大戦中、日系アメリカ人は言われなき差別に苦しみ、強制収容所に無理やり送られた。その時の日系人の恐怖が分かった。」と。

 

9月11日に戻る。
夜、私は帰宅し、自分の部屋へ行こうとした。
すると、エレベーターにするりと滑り込んできたヒスパニック系の若者従業員がいた。
「何階?」
と彼に聞き、私はボタンを押してあげた。

 

自分の行く先の階へ行く間、彼は話しかけてきた。
「今日はNYにとってとんでもない一日だったね。」
私もうなずく。

 

この時、明日から私はどうなっちゃうんだろう?という気持ちだった。
NYがまたどっかの国に攻撃されて吹っ飛んだ、なんてことになったら、もう覚悟するしかない。
明日も生きていられるかどうかなんて、分からなくなってきた。
不安というより、もう逃げるところはないんだから、運を天に任せるというあきらめか。

彼はいろいろなことをひとくさり話した。
そして、自分の目的地の階へ着いた時、こんなことを言った。
「僕たちの世界は、どこへ行こうとしてるんだろうね。」
本当に、そう思う。

 

ニュースを見たものの、自分の目で確かめてみようと思い、私は数日後に現場へ行ってみた。
何枚か写真を撮影したが、想像以上に大きな被害であることに衝撃を受けた。
その後、野次馬を防ぐために現場は立ち入り禁止となった(当たり前ですよね)。

 

アメリカの報道は、最初はAmerica Under Attack となっていたが、のちにAmerica At Warと勇ましいタイトルに変わった。
多分、打ちひしがれたアメリカ人を鼓舞するためなのだろう。
後にアフガニスタンへ米軍を派兵することになったので、皮肉だがその伏線にも見える。

 

しかし、テロからかなり時間が経ってから、ある雑誌の記事の見出しにこんなのを見つけた。
Why do they hate us?
どうして自分たち(アメリカ人)は嫌われるのか?ということだが、テロ発生から時間が経ち、様々な角度からの検証が進んできたということなんだろう。

 

周囲の友人たちと、ビフォーアフターの話を時々した。
いつ、自分の生命が奪われるか分からない時代になったので、周囲の人には常に感謝を伝えるようになった、と言う人が増えた。
私もテロの影響か分からないが、感謝は早めに伝えるようになった。

 

今、こうしてアフガニスタンから米軍が撤退するのを見ると、20年経ってこういう結果にしかならなかったのか、という気もする。
世界のゆくえに人々の日々の営みは左右されるし、でも、世界を変えるのはやはり人間なんだよね、とも思う。

 

自分はもう、世界で大活躍するようなことはないが(今までもなかったが)、学生さんとかこれからの若い人には、今よりもっと良い世界を実現してほしい。
すみません、言いたいことがたくさんあるのですが、自分の筆力不足で、うまくまとまりませんでした。