先日、テレビを見ていたらこんなことを言っていた。
「欧州は教育費が無料。特に北欧諸国は学費だけでなく、学生の生活費も補助してくれる」
これはどうやら本当らしい。
北欧の国民は高額の税率を課せられている代わりに、医療と教育は無料だという。
私もこれを知る機会があった。
スウェーデンの留学生、ローランド君という子がいた。
日本の大学は3月で学期が終了し、4月から新学年が始まる。
なので、4月からの新学期の学費と生活費をスウェーデン政府に申請するのだ、と張り切っていた。
ローランド君の両親は離婚していた。
彼はどちらの親からも、何も金銭的支援を受けていないらしかった。
日本に留学するお金は、自分の貯金とスウェーデン政府からの奨学金でまかなっていた。
そして、彼は時折セブンイレブンでアルバイトをしていた。
日本人、あるいは他国から来た留学生は、たいてい親(もしくは自分)が留学費用(あるいは一部)を負担していた。
ローランド君の日本留学費用は全額スウェーデン政府からの奨学金と聞き、我々日本人は「スウェーデン、すごいね」と噂していた。
で、3月のこと。
ローランド君が英語で書かれた書類を持ってきた。
スウェーデン政府に来年の分の奨学金を申請するので、それに必要な書類だという。
「4月1日から来年の3月31日までの一年間、日本の大学で勉強できるという証明が必要なんです」。
え?そんなもの、無いよ。
そういうと、ローランド君は悲しそうな顔をした。
「でも、この証明が必要なんです。それが無いと、スウェーデン政府が奨学金を出してくれないんです」
そう言われてもねえ。
「あなたはもう一年、日本で勉強できることになっているじゃないの。ビザのコピーじゃダメなの?」
私はそう言ってみた。
ローランド君は首を振った。
どうしても、「一年間、日本の大学に在籍できる証明」が欲しいらしい。
彼の通う大学の学務課や経理課、色々な部署に聞いてみたが、そんな証明はいまだかつて発行したことが無いという。
そりゃそうだろうなあ。
日本人学生なら、そんなもの必要ないもの。
仕方なく、ローランド君にそれを説明する。
そういう証明書は無いので、学生証のコピーとか学生ビザのコピーとかを提出してみたらどう?
ローランド君はますます悲しそうな顔になって、首を振った。
私もヤツの言いたいことは何となく分かる。
しかし、ないものはないんだよ。
彼はしゅんと肩を落として帰って行った。
また別の日に、ローランド君がやってきた。
本国に問い合わせたが、やはり学生ビザのコピーでは受け付けられないという。
「4月から来年3月まで日本の大学で勉強できるという証明」が必要だ、とスウェーデン政府の奨学金担当者?から再三言われたのだそうだ。
んなもん、ないんだっちゅうの。
私がそう言っても、ローランド君は必死だった。
「この書類をスウェーデン政府に出さないと、僕の奨学金がもらえません!!」
分かるよ、分かる。
私だって助けてあげたい。
しかし、スウェーデン側が求めるような証明書なんて、日本の大学には無いんだよ。
私の上司や同僚も、困ったねえと顔を見合わせている。
ローランド君の焦りは、早く申請しないと着金が遅れる、ということらしかった。
ローランド君は引きつった声を上げた。
「じゃあ、僕は新学年はどうなるんですか?日本で勉強できないの?」
「問題なく日本の大学で勉強できるよ。学生ビザもまだ有効でしょ。それじゃダメなの?」
彼は黙った。
それじゃダメなんだろう。
私も、どうやったらスウェーデン政府を納得させられるか考えた。
ふと彼は、経理課のカウンターの上に置いてあったゴム印を見つけた。
「請求書在中」とか「折曲厳禁」、「消費税」「電話がありました」等、ゴム印が置いてあった。
「このゴム印をこの書類に押してください」
突然ローランド君は妙なことを言い始めた。
「これ?このゴム印?これは全くオフィシャルな意味合いはないよ?」
私は驚いた。
貴重な印鑑であれば、事務室などの机の引き出しに大事にしまってある。
しかし、こんなハンコは常にカウンター上に置いてあって、誰でもいつでも押せる代物だ。
文具店の事務用品売り場へ行けば、なんぼでも購入できる。
大学の公的な証明書でも何でもない。
「いいです。そのゴム印を押してください」
ローランド君はうつろな目で言った。
なるほど。
私は彼の意図が分かった。
スウェーデン人にはどうせ漢字は読めない。
日本語の読めないスウェーデン政府の役人たちは、「おお、そうか、これが日本の証明か」と勘違いしてくれるに違いない。(ホントか?)
ローランド君は、言葉に出しては言わなかったが、どうやらそういう意図らしかった。
私はそれ以上は聞かなかった。
念のため、ハンコに書いてある意味を彼に説明した。
奨学金申請書類に押すには、まるっきり見当違いのトンチンカンなハンコたちなのだが、彼は漢字の意味はどうでもいいらしかった。
さらに念のため、そこにいた経理課の職員に、このハンコを使ってもいいか確認した。
「もちろんいいですよ。そのために、誰でも使えるようにカウンターに置いてあるんですよ。
でも、いいんですか?全く意味のないハンコですよ~」
経理課のベテラン職員が笑いながら言ってくれた。
私はローランド君の求めるままに、その「どうでもいいハンコ」を申請書類に押した。
ローランド君はそれを受け取り、ふらふらと帰って行った。
我々日本人はその姿を見送って、少々不安になった。
日本語が分かる職員がスウェーデン政府内部にいたら、「お前ふざけとんのか!」とどつかれそうなハンコを押しちまった。
もう、ここまで来たら、あのふざけた申請書類が無事に受け付けてもらえる奇跡を願うしかない。
その後。
申請書類をスウェーデン政府に送付しても、すぐに奨学金審査が通って送金してもらえるわけではない。
やはり、そこには多少の時間が必要なわけだ。
とうとう、ローランド君の所持金が尽きた。
同僚の菊池さんがふらふら歩いているローランド君を見かけ、声をかけた。
すると、「お金がなくなり、この2,3日食事をしていない」と言われたのだとか。
菊池さんは同情して、ローランド君に食事をご馳走することにした。
「私もお金がないから、すき家でいい?」
と言うと、何でもいい、という。
飢えていたローランド君は、涙を流しながら牛丼を食べたらしい。
「一年間日本で勉強できるという証明書」を提出するのに手間取り、奨学金申請が遅れたので、奨学金が着金する前にお金が無くなってしまったようだった。
私も彼のことが気にかかっていた。
例の、「ふざけたハンコ」を押した奨学金申請書類はどうなったんだろうか。
やはり、「お前、なんだこの書類!」とスウェーデン政府から突き返されたんだろうなあ…。
どうでもいいハンコを押したこっちも、ちょっと罪悪感がある。
しかし、数週間後にローランド君はにこやかに現れた。
「奨学金、届きましたよ!生活費も!」
彼の血色のいい顔色を見たら、すき家で泣きながら牛丼を食べた人物には思えなかった。
待てよ?奨学金が出た、ということは…?
私はこっそり彼の顔を二度見した。
ローランド君はウキウキしながら、私の同僚たちとしゃべっていた。
「スウェーデン政府、すごいねえ!学費も生活費も出してくれるんだ!」
日本人たちがそういうと、ローランド君はえへんとふんぞり返った。
「だって、そのために僕たちは高額の税金を納めているわけですから!これくらいのメリットを受け取らなくちゃね!」
そうか。
てことは、あのどうでもいいハンコをついた奨学金申請書類は受領され、ローランド君はスウェーデン政府から首尾よく学費及び日本での生活費を受け取ったわけだ。
一件落着。
もう、終わったことは掘り返さないようにしよう。
ローランド君もその件については何も言わないし、私もふれまい。
スウェーデン政府の奨学金審査担当者に、誰一人として日本語を理解する職員がいなかったことは幸運だ。
もし日本語を理解する政府職員がいたら、あのふざけたハンコが押された書類を見て激怒したことだろう。
いや~良かった。
それにしてもスウェーデンって、なんと手厚い教育政策を取ってるんでしょうかね。
教育と医療が無料であれば、人生にかかる2大出費については心配無用なわけだ。
そうでなければ、ローランド君のように両親が離婚した家庭の子どもが、日本へ留学するなんて難しいに違いない。
「高い税金払ってるんだから、これくらいのメリットがなきゃね!」
とローランド君も言っていた。
海外留学費用及び生活費まで給付(全額ではないにせよ)されるなら、まあ税金も払いますよ…って思えるんじゃないでしょうかね。