オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

紙の動物園

 

先日、図書館で本を数冊借りた。

自宅でそれらの本を楽しく読んだ。

全部読み終わっていなかったのだが、どういうわけか「全冊、読み終わった」気になっていた。

 

ある日、「そろそろ返却日が迫っているはずだ」と思い、返却日を確認。

すると、返却日が明日ということを発見した。(よかった確認しておいて)。

 

そこで、「全部読んだ」はずの本をカバンに入れようとした。

そして発見した。

 

「う!この本だけ、読んでなかった!!」

 

それが、「紙の動物園」(ケン・リュウ著、早川文庫)だった。

ヤバい。

 

読まずに返却しちゃおうかな。

明日、この本を図書館へ持参して、返却日を延長することも可能だ。

しらばっくれて?返却日を忘れたことにして、もう2,3日借りようかな。

いや、今すぐ読もう。

 

というわけで、超特急で読み始めた「紙の動物園」。

つまり、「慌てて読んだので、さほど期待していなかった」のである。

そもそも、どうしてこの本を借りたのかも記憶が定かではない。

 

しかし、読み始めてすぐに気づいた。

著者名がリュウ(多分劉)というところから推察するに、中国系か中国人作家。

「紙の動物園」は、折り紙で折った動物が登場するのである。

 

とここまで来ると、小説の内容が推測できる。

(↓ここからは私の推測)

 

アメリカへ移住した中国人一家の、折り紙で折った動物の思い出。

アメリカでも中国文化を忘れず、折り紙は代々受け継がれていく…なんて心温まるストーリーだろう。

 

読んでみて分かった。

中らずと雖も遠からず、ってところだ(が、ちょっと違った)。

 

主人公は中国系アメリカ人の「ぼく」。

米国コネチカット州に両親と住んでいる。

 

大陸出身中国人である母親は、物をもらうと常に包装紙を取っておく。

そして、その包装紙で様々な動物を折り紙で折ってくれるのだ。

母親が折ってくれた動物は生き生きとして動き、自分の子ども時代を彩る。

 

しかし。

「ぼく」はアメリカ人の子どもと遊び、アメリカの生活になじむようになっていく。(ま、アメリカ人だしね)

母親の作ってくれた折り紙の動物たちは、中国臭くてダサい。

アメリカ人の子どもが持っているおもちゃの方がカッコいいのだ。

母親が作ってくれた動物たちは、屋根裏の箱に突っ込まれた。

 

母親は英語が話せない。

思春期になった「ぼく」は母親が中国語を話すと拒絶し、母親に「英語で話して」と命令するようになる。

「ぼく」は中華の炒め物の夕食を拒否し、テレビゲームで遊び、フランス語を習った。

 

母、そして母の背負ってきた中国が恥ずかしく、「ぼく」はアメリカ人として生活する。

母とも口を利かなくなる。(そういう年頃だし)

そして、母親はがんになる。

 

とくれば、結末は大体推測できますよね。

 

この小説を、「ささっと読み飛ばす」つもりだった。

でも何だか身につまされて(私にも、主人公の「ぼく」と似たような経験がある)、ぐいぐい読んでしまった。

 

「ぼく」は、大学を出て就職活動をする。

「企業に採用してもらうために、どうやって効果的な嘘をつくか練っている」時に、母親が死去。

 

↑こんなところが上手ですよね。

自分の「アメリカ人」である、というアイデンティティが「半分ウソ」で固めたようなもんだという比喩ですかね。

 

ガールフレンドのスーザンと「ぼく」の実家へ行く。

スーザンは屋根裏で折り紙の動物が入った箱を見つけ、あまりの出来栄えに感心する。

そして、折り紙のトラを「ぼく」と暮らすアパートへ持って帰る。

 

ある日、家にあった折り紙のトラがたまたま風で飛んだかして、「ぼく」の目に留まる。

折り紙がほどけ、包装紙の中に書いてあった中国語の手紙を見つける「ぼく」。

 

中国語が読めないのでダウンタウンへ行き、中国人観光客を探して手紙を読んでもらう。

それは母から「ぼく」に宛てた手紙で、母の生い立ちが書いてあった。

 

というわけで、母親の素性が明かされる。

母親は文化大革命で両親を亡くし、10歳で孤児になる。

列車に乗り、香港を目指すが人身売買につかまり、裕福な家庭にメイドとして売られる。

その生活から脱出するために、嫁探しカタログに写真を掲載。

彼女を気に入ったアメリカ人と16歳で結婚し、渡米するのだ。

(なので、この小説のタイトルは「カタログの花嫁」でも良さそうな気がします)

 

コネチカットで英語も分からず、ずっと一人ぼっちだった母。

「ぼく」が生まれて、「ぼく」が河北省の両親と同じ発音で中国語を話せると分かった時の喜び。

 

あ~これ以上は書けません。(って、結構ネタばれ書いたがな)。

この小説を読み終わったら、涙がつーっと両目からしたたり落ちた。

 

「ぼく」は寅年。

母親の手紙を翻訳してくれた中国人観光客が読み終えても、顔を上げることが出来ない。

そして、折り紙のトラと共に2人でアパートへ帰るのです。

 

あれこれ上手ですよ、この作家さん。

この物語は、移民の多いアメリカ人の心に響くだろうと思います。

 

ところで、この文庫本に収録されている、もう2つの小説も好きです。

一つは「月へ」。

これはアメリカへ亡命申請する中国人親子の話。

 

もう一つは「結縄」という話。

これも異文化間の摩擦をテーマにしてます。

 

主人公はミャンマーの片田舎に住むソエ・ボ。

彼は、縄に結び目を作って歴史や情報を記録する村の記録係。

昔、ナン族は文字を持たなかったので、縄に結び目を作って記録していたのだそうです。

 

そこへ、アメリカからトムという製薬会社の社員がやってくる。

札束をちらつかせながら、ミャンマーの伝統的薬草や虫について調べている。

彼はミャンマー伝統の結縄記録を目の当たりにして、これが自分の会社に役立てられないものかと考える。

 

ミャンマーも気候変動の影響を受け、コメが取れなくなった。

ソエ・ボは、『結縄の知識を教えてくれるなら新しいコメの種もみをあげる』という交換条件でトムと共に米国へ。

(もう、ヤバい予感しかしませんよね)。

 

私もアフリカで、欧州の医療関係者や企業がアフリカの伝統的薬草や風土病について調査しているのを見た。

なので、ソエ・ボの不幸な結末しか思いつかん。

 

小説の結末。

ソエ・ボはミャンマーへ、トムからもらったコメの種もみと共に戻る。

そのコメは不思議なことに、早く実ることは実るが、おいしくない。

そして、再びトムが村に来る。

 

トムは、「コメの新しい種もみを買ってもらうために来た」という。

なぜ?と尋ねるソエ・ボ。

トム曰く、「あげたコメは、種もみを取っておいても来年は発芽しない。」

驚くミャンマー人。(そりゃそうだ。)

 

トムがくれた種もみはDNA操作されたコメ(GMOライス)で、一回しか実らないという。

なので、今年はまたお金を出して新しいコメの種もみを購入しないといけない。

GMOコメは開発者がいるので、そいつに代金を毎年支払う必要がある、というわけです。

 

ソエ・ボは尋ねる。

じゃあ、自分がアンタたちアメリカ人に提供した結縄の知識に対しても、お金を払ってくれるのか?

 

トムはそれを一笑に付す。

俺たちがお金なんて払うわけないでしょ。

アンタたちミャンマー人の伝統的な知恵は、著作権が無い。

つまり保護されてないからね。

 

そこでソエ・ボは悟る。

村を助けるためにアメリカ人に協力したのだが、それは「ひも付き」だった。

『遠くにいる藩王に対する借財を、村人に背負わせただけだった』と。

(ホント、先進国の人間はあくどいねえ)。

 

米国へ帰ったトム。

ソエ・ボのおかげでアルゴリズムの成果が上がり、創薬の速度は加速された。

ミャンマーの貧しい村人から金を巻き上げることにも成功した)。

自分の論文も査読に回り、特許申請に弁護士が動いてくれる。

わが社の利益も増大し、言うことなし。

次はブータンへ行こう。

 

と、ミャンマーブータンを踏み台にして金もうけをし、出世するアメリカ人の姿が描かれる。

貴重な先祖の知識をアメリカに教えた途上国は、その代償に借金を背負わされる。

これは、今現在も世界中のあちこちで発生している悲劇だ。

 

私個人的には、「紙の動物園」の方が文学性が高いので好きだ。

アメリカ現代文化風刺という点では、本作「結縄」が手厳しくてよろしい。

 

いずれの作品にも共通することは、異なる文化間での気持ちのずれや先進国批判がテーマであること。

たぶん、違う国で生活したことのある人は、「ああ、わかるわかる」と思いながら読めるんではないでしょうか。

 

それにしても、中国にも折り紙があるとは知らなかった。

 

「畑からバッタを追い払うための鳥」

「ネズミを追い払うためのトラ」

「新年のお祝いの龍」

そんな折り紙があるなんて、見てみたいですよね。

 

特急でこの本を読み終えて、返却期限の日になんとか図書館へ返却。(一安心)

読める本がたくさんあるとテンションが上がるんですよね~。

 

しかし、一度にたくさん借りるのは危険だ、と改めて思った。

次回は2冊くらいにしておこう…。