先日、NHKのBS番組で「実際に妖怪を見たことのある人」の特集をしていた。
番組タイトルは、忘れてしまった(すみません)。
視聴された方はいらっしゃるでしょうか。
この番組のポイントは、「日本全国に妖怪がいる」ということではない。
「現実に妖怪を見た人から話を聞いた」体験談という点だ。
つまり、妖怪を目撃した方々はご存命なのである。
んなバカな。
と思うが、実際に妖怪を目撃したり体験したりした老若男女が日本全国にいらっしゃるのだ。
私もマンガやアニメに登場する妖怪は好きだ。
しかし、現実に彼らが存在するかというと疑問だ。
想像の産物だろうと思っている。
でも、「見た」人がいるなら仕方ない。
(このあたりの感覚、スペイン人がよく言う「俺は信じないけど、実際にいるんだよね」ってヤツだ)。
チャンネルを変えて別の番組を見よう、と思ったのだが、なぜか番組を最後まで見てしまった。
やはりNHKだけあって、「妖怪は怖くて恐ろしい」という見世物的な内容ではなかった。
民俗学的な切り口だが、学術的にはそこなんだろうと思う。
(ここからは、番組を見ていない方のため内容を説明したい。細かいところで記憶違いがあったらご容赦くださいませ)
岩手県岩泉町はカッパ伝説で有名なんだそう。
そこに住む80歳の女性は、小学4年生の時にカッパと遊んだことがあったという。
80歳の女性が小学生の時…って、数十年前のことですよね。
ってことは、何百年前の昔話ではない。
うーむ、妖怪って現代でも出没するってこと?(←ここが番組のキモ)
彼女が小学生だったある夏、友達と川で遊んでいた。
するとカッパが出現して、一緒に水遊びを始めた。
カッパは、人間のやることを真似するのだという。
右手でカッパに水をかければ、カッパも右手で自分たちに水をかける。
両手でかければ、カッパも両手で彼女たちに水をかけた。
三人(彼女と友達とカッパですね)で、楽しく水遊びし続けたそうです。
気が弱く、男の子にいじめられていた彼女。
翌日、学校で「昨日、カッパと遊んだ」と話した。
すると、いじめっ子どもが「自分もカッパに会いたい」と彼女と共に川についてきたのだそうです。
それ以来、その女性は折々にその川へカッパを探しに来た。
再び会えるのではないかという期待を抱いて。
しかし、カッパはそれきり現れることはなかった。
彼女がいじめっ子にいじめられることも止んだという。
「自分も80歳になってしまった。カッパさんも年を取ったのかも。」
川岸を歩きながらその女性はインタビューに答え、寂しそうに笑った。
あの日以来、カッパには再会できていない。
『カッパなんているわけない、あきらめよう』と思うそうだ。
それでもいまだに楽しかったあの夏を思い出し、思い出の川にカッパを探しに来てしまうのだとか。
ここで、現実的な(カッパを信じていない私の)勝手な分析。
もしかすると彼女がカッパと思ったのは、その川へ遊びに来ていた隣村の子どもだったのかもしれん。
(あるいは東京から夏休みに親せき宅へ遊びに来ていた子とか…)
でも、いい思い出だ。
カッパがいようといなかろうと。
カッパのおかげで?いじめられなくなったのは、彼女の人生で大きな心の支えになっただろう。
妖怪だが、友達だ。
面白かったのは、北海道のアイヌの方?のお話。
そのお兄さんは木彫りのおみやげ品を制作し、販売している。
お父さんが猫を飼っていたのだが、猫は父親にものすごくなついていたという。
お父さんが行くところどこへでもついて回り、片時も離れなかったらしい。
ある日。
お兄さんが部屋にいると、猫がやってきた。
「お父さん、どこへ行った?」
と猫が聞いてきた。
「知らない。その辺にいるでしょ。」
とお兄さんは答えた。
すると猫は、
「いいや、いないよ。」
という。
「自分で探したら?」
と猫に言ったところ、猫は返事した。
「おう(分かった)。」
そして猫は消えた。
ん?
一人になったお兄さんは、しばらくして我に返る。
「今、自分は猫と日本語で話してなかったっけ?」
気のせいか?
いや、確かにさっき、オヤジの猫は日本語をしゃべったぞ…。
(そして自分も疑問も持たず、猫に返事していた)
という体験談。
お兄さんも、いまだに腑に落ちていない様子。
猫が日本語をしゃべるわけがない(いや、日本語だけじゃなく英語でもヒンドゥ語でも)
でも、確かに猫は日本語をしゃべったんだよ。
ふーむ。
お兄さんの錯覚(幻聴)かもしれないのだが、これぞ妖怪?と思わなくもない。
実は似たような体験が私にもある。
以前飼っていた猫のぽん太がそんな感じだった。
もちろん、私はこのお兄さんのようにはっきりぽん太と「日本語でしゃべった」記憶はない。
しかし、日々の生活で「お腹空いた」とかその程度なら会話が通じていたと思う(複雑なことはもちろん伝えられなかった)。
飼っている動物と近しい関係にあると、種を超えて?お互いに何を言っているのか分かるのかもしれない。
犬や猫を飼っている人は、このお兄さんの体験談が理解できるだろう。
この話を番組で聞いた時、ちょっと納得した。
言語に頼らないコミュニケーションが異種間で出来た時とか、自分がメッセージを受け取ることが出来た時とかに、「妖怪が出現した」ってことになるんじゃないですかね。
印象的だった話もあった。
場所は、愛知県だかどこの県だったか忘れた。
人魚淵という、かつては深い水をたたえた場所があった。
そこには人魚が住んでいるという伝説があった。
その昔、雨が降らない年があった。
どの村でも水不足に苦しんだが、人魚淵のある村だけが水に困らなかった。
人間を助けるために、人魚たちがひそかに村へ水を運んだのだという。
番組でその話をした高齢男性。
子どもの頃、誤って人魚淵へ転落したことがあった。
水の底は深く、渦を巻いていて(たぶん湧き水?)、奥へ吸い込まれそうになったのだそう。
時が経ち、高度経済成長の時代。(高度経済成長期とは、1955年~1972年ごろだそうです)
雨が降らない年があり、村は再び水不足になった。
困ったその村の人々は、人魚淵から水を抜いた。
人魚が住めなくなると分かっていたが、自分たちが生きるためにはそうするしかなかった。
そして現在。
人魚が住んでいた人魚淵の水は濁った。
以前のような豊かな水はどこかへ行ってしまった。
そして、人魚たちも二度と人間を助けることは無くなった。
取り返しのつかないことをした。
それが、その番組で、人魚淵の伝説を語った高齢男性の後悔だった。
不思議な話ですよね。
1970年代ってそんな遠い昔じゃない。
村を助けてくれた人魚に、恩をあだで返す形になった人間たち。
「自分たちが助かるために、人魚を犠牲にするしかなかった」って…。
ここでいう「人魚」は、「自然」「環境」と言ってもいいのかもしれん。
本当に人魚が存在していたかどうかは、誰も目撃していないから分からない。
自然に対する尊敬や畏怖の対象として、「人魚」とその住処「人魚淵」が存在していたのかもしれない。
話は変わるが、我が家では母が墓参の計画を立てている。
母の出身地は岩手県だ。
残念ながら、私は岩手弁が全く理解できない。
岩手ネイティブのはずの母も関東生活が長くなり、現地の人の話を全然理解できなくなっている。
言葉が分からないって、旅先で相当苦戦を強いられるのだ。
岩手でタクシーに乗ったりバスを待ったりする。
タクシー運転手の方やバス運転手の方、地元の方々が話しかけてくるのだが、これがさっぱり分からない。
何度も聞き返すのも失礼ですよね。
3回くらい聞き返しても理解できないときは、分からないけれど分かったふりをしている。
岩手で、駅へ行くバスの到着時間になってもバスが来ない、なんてことがあった。
バス停で待っている他の乗客が「◎◎で××だ」と教えてくれるのだが、ほとんど理解できない。
(多分、遅延の理由を説明してくださっているのだろうと推測)。
バスが来るのか来ないのか不安を抱えたまま、運を天に任せるしかない。
こういう「自力でどうにもならない」感じ、普段の生活ではなかなか無い。
今はどこの国も英語が通じる場面が多いので、海外ならたいていどうにかなる。
むしろ海外旅行の方が、岩手旅行よりよほどハードルが低い。
岩手の片田舎でバスが来ず、「マジで帰宅できるんだろうか」と不安になるとき。
私なぞ必死でバス停の周りを見回し(何もないが)、言語に頼らず非言語の情報から相手の意図をくみ取ろうとする(地元の方の表情とか口調とか)。
こうやって普段の生活で使っていない第六感をフル活用し、無事に関東へ帰ろうとする。
無事に新幹線に乗り、周囲の人の話す内容が分かると、どっと安心感が出てくるのである。
でも、「言葉がまったく理解できない環境」も、たまには悪くない。
人間は、「自分の力で何でもコントロールできる」状況に慣れ過ぎているのかも。
自分の力を超えた環境に置かれると不安になるが、そうなったら謙虚に状況を受け止めるしかない。
非言語コミュニケーションの重要性を認識する良い機会なんだと思う、夏って。