オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

カルピスを作った男

 

カルピスと言えば、日本人なら誰もが一度は飲んだことがある国民的飲料だ。

 

そもそも乳酸菌飲料は日本の伝統的な飲み物ではない。

私は常々、「カルピスのルーツは何だろう」と不思議に思ってきた。

お茶なら中国、紅茶なら英国から日本へ入ってきたのだろうけどねえ…。

 

そしたら、この本である。

「カルピスを作った男 三島海雲」(山川徹著、小学館)。

案の定、カルピスのルーツは騎馬民族乳飲料だった。

 

まあ、ちょっと考えれば想像がつく。

日本の近隣国で牛乳(あるいはヤギや羊など獣の乳)を飲む民族と言えば、モンゴル人くらいしかいない。

やっぱりなあ…。

 

そんな感じで読み始めた本だ。

「カルピスを作った男」、その方は三島海雲(かいうん、とお読みするそうです)。

 

本名である。

大阪にある、浄土真宗の貧しいお寺の長男に生まれたそうである。

確かに僧侶っぽいお名前である。

 

カルピスの包装は水玉模様だった(昔の話ですが)。

もともとは青地に白の水玉で、天の川をデザインしたものだったそうです。

なぜなら、カルピスが発売された日は1919年7月7日。

 

うーむ。

モンゴルといい、七夕といい、天の川といい、ロマンチックですねえ。

カルピスってそういうヤツだったのか。

 

ところで、モンゴルモンゴルというが、本書ではモンゴル国を意味しているわけではない。

中国の一部となっている内モンゴルが、実際のカルピス発祥地なのだそうだ。

 

この地域の歴史や地理に疎いので、地図を広げて見た。

確かにモンゴル国の南には、中国領内に「内モンゴル高原」が広がっている。

カルピス創始者三島海雲は、この山岳地域を青春時代に「体に刻み込むように」旅し、晩年はそこを故郷のように語ったという。

 

三島は、子どもの頃吃音(どもり)に悩まされていた。

問題の多い父親、献身的な母親のもとで育つ。

体が虚弱で、母親は「体に良い」とされるありとあらゆることをやってくれた。

 

子どものころから英語が好きで習っていたが、成人すると中国大陸で日本語教師として働くことになる。

その当時は、大陸で一旗揚げようとする日本の若者が多かった。

三島青年は長い時間を中国で過ごし、ビジネスに参画するようになる。

そして内モンゴルに家畜や馬の買い付けにやって来て、鮑氏(パオ氏と読むそうです)宅に世話になる。

 

そこでご馳走になったのが乳製品だった。

初めて見る飲み物だが滋養強壮に良いと聞き、三島は実際に飲んでみる(もともと虚弱体質だしね)。

すると、「便通が良く」なり、「不眠症が治っ」たり、健康になったのである。

 

そこは海抜1,000メートルを超える高地で薬草も多く、家畜たちは滋養あふれる草を食べて育つ。

(だから良い馬も産出するわけですね)。

三島海雲はバター、ヨーグルト等、遊牧民が様々な乳製品を作るのを見て驚く。

そして、実際に自分が食べたら健康になったので、それら乳製品は体にいいのだと理解する。

 

三島は遊牧民の生活を観察し、彼らが乳をカメに蓄え、乳酸菌を自然に発酵させるのを知った。

そして、遊牧民から乳製品の作り方を教わるのだ。

 

その後、歴史は急速に変化していく。

外モンゴルが独立しモンゴル国となり、三島の手がけた綿羊事業もうまく行かなくなった。

日本に残してきた母も妻も亡くなった。

大陸は清朝から中華民国へと支配者が変わっていった。

三島は日本へ帰国することを決意する。

 

1914年、日本初の乳酸菌ヨーグルトが発売された。

「先を越された」と三島は思うが、内モンゴルの本場の味の方がよっぽどおいしいと気づく。

そこで「醍醐味」という名前の製品を作ってみる(このネーミング、さすがお坊さんですね)。

 

しかし一斗の牛乳から一升しか作れず、おまけに乳酸菌が生きているから貯蔵できない。

(昔は冷蔵庫というものが無かったので、仕方ない)

商品化向けではなかったのだ。

 

この商品のヒットには布石があった。

明治時代には「健康」に対する関心が高まり、乳酸菌が腸内に働きかけるのではと考える学者もいた。

なので、「醍醐味」が滋養強壮、健康にいい、というウリになったらしい。

 

「醍醐味」がうまく量産できないので、キャラメル等別の商品を作った三島。

他の乳製品を作ろうと試行錯誤中に、偶然カルピスが誕生した。

カルピスの試飲をお願いした人たちは、与謝野晶子夫妻、岡本太郎など多岐にわたったそうだ。

 

そして、世界で初めてビタミンB1を発見した東大教授の鈴木梅太郎が「カルシウムは体に良い」と言う。

んじゃあ、カルシウムを入れるか!

 

というわけで、カルシウムの「カル」仏教用語のサルピルマンダ(牛乳を精製する過程の5段階のことだそうです)の「ピル」をくっつけて、「カルピル」。

しかしこれが何となく、言いにくい。

「カルピス」にしてみると言いやすいので、「カルピス」にした。

ここでも仏教用語か~い!!

 

そして、前述したように1919年7月7日。

カルピスが販売された。

そのあとの売れ行きは説明不要。

 

2007年のカルピス社の調査では、なんと日本人の99.7%が「カルピスを一度は飲んだことがある」と答えたのだそう。

その後、メーカー各社は似たような飲料開発にしのぎを削り、ヤクルト等の飲料が発売されていった。

というわけです。

 

ところで一つ脱線させてほしい。

 

カルピス社のシンボルマークは、カルピスを飲む黒人を模したイメージだった。

これは、欧州の困窮した画家を救うため、ドイツ、フランス、イタリアの画家に向けた「カルピスポスターコンクール」と銘打ち、三島が企画し公募したんだそう。

優勝作品に賞金が与えられるだけでなく、落選した作品も展覧会で公開、競売にかけて売り上げを作者に送るという仕組みだった。

 

そして、1位の作品はポスター、2位の作品は雑誌広告、3位は新聞広告と用途が決まっていたという。

カルピスを飲む黒人のイメージは3位だった。

 

当時の新聞は白黒印刷。

カラー作品だとベタになってつぶれてしまうが、3位の作品は白黒印刷でも映えるものだった。

新聞広告は多くの人が目にするので3位の作品は幅広く認知され、カルピス社のロゴマークとして採用された。

 

と言う経緯があったのだそうだ。

しかし近年になって「黒人のイメージは人種差別に当たる」と言われるようになり、このロゴマークは撤回された。

 

そこで(個人的な意見だが)言わせていただきたい。

この採用経緯を見る限り、三島に人種差別意識があったとは思えない。

このマークが黒人の方に不快感を与えるなら撤回しなくてはいけないが、私はいまだに納得していない。

 

「差別」とは、特定の人の身体的特徴をあざ笑ったり、その人が不愉快になるような揶揄をしたりすることなんじゃないかと私は思う。

(例えば目を吊り上げてアジア人をからかうとかね)。

カルピスマークは黒人の方を貶めるような印象を(私は)受けないんだが、いかがだろうか。

 

ガーナでもコートジボアールでも、広告に美しい黒人美女が使われているのは普通だった。

以前も記事に書いたが、アフリカで販売されているLUX石けんの包装紙には、微笑む黒人美女が描かれていた。

カルピスのマークが差別なら、アフリカ諸国で見かける広告も差別に当たることになっちゃうよ。

 

脱線しすぎた。

 

その後、カルピス社は様々な企業に吸収され傘下に入り、という紆余曲折を繰り返した。

三島海雲は経営者向きではなく金勘定に疎く、味の数値化も勘や経験、メモ書きに頼っていた。

 

もともとお寺出身の三島は、「佛教聖典」を愛読し、華厳経を日々読んでいた。

「一人の人間は、その人自身の力で存在しているのではない。他のものとの結びつきを離れては存在しえない」

と言っていた。

だからこそ、企業の社会貢献に力を入れていたのだという。

 

そういう人は、やはり金もうけには向いてないですよね…。

効率化、機械化、利益第一主義が進む世の中には時代遅れになってきていたのだ。

会社は公共の物と信じる三島は世襲を拒否。

息子に会社を継がせずに、1974年にこの世を去る(頑固ジイさんだな…笑)。

 

読了して思うこと。

一人の男がモンゴルを旅し、乳酸菌飲料に魅せられ、それを改良し商品化して一生を終える。

長い長い夢を見せられたような読後感がありました。

 

そして、今現在もカルピスという商品は販売されている。

 

余談になるが、カルピス発祥の地・内モンゴルの方のコメント。

彼は1996年にカルピス社の方が内モンゴルにやってくるまで、カルピスという飲料を知らなかったという。

戦後の日中関係が良くなかった影響で、カルピスを知る人は現地にはほとんどいないのだそう。

 

しかし、もしカルピスが内モンゴルで製造、販売されたらどうだっただろうか。

 

「カルピスはモンゴル人に愛されたでしょうね。」

 

うーん、それも不思議な感じがする。

三島が生きていたら内モンゴル人がカルピスを飲むのを見て喜ぶだろう。

内モンゴルに憧れ、現地の人と親しく交わり、自分がおいしいと思った現地の食品を日本に紹介する。

 

いい人生じゃないですか。

あ~うらやましい人生だな。

一つの商品の誕生に、一人の男のモンゴル愛が結実しているなんて。

うーむ、やっぱりロマンチックだなあ…。