すみませんが、この記事も先日のヘミングウェイの続きです。
先日、ヘミングウェイ短編集「何を見ても何かを思い出す」(新潮社)に収められた表題短編について記事を書いた。
それはそれで面白かったのだが、他の作品でもう一つ記事を書きたくなった。
その短編のタイトルは「異郷」。
異郷というと単純に海外のことかと思いがちだ。
この短編においては、海外だけでなくアウェーな状況とか、そんな意味も含む。
あらすじは簡単。
小説家の中年男(多分ヘミングウェイ)と若い女性が車で旅に出る。
その中年男の心の動きを描写したもの。
特に大きな問題が起きるわけでもないし、起承転結が明確なわけでもない。
二人はマイアミから車で北上し、西部を目指す。
それだけなんだが、とても「アメリカらしい」描写がたくさん登場する。
例えば、マイアミで車を手に入れたシーン。
“午後の二時になる頃には、ウェスタン・ユニオンに金が送られてきた。五千ドルではなく、三千五百ドル。そして三時半になる頃には、走行距離わずか六千マイルの中古のビュイック・コンヴァーティブルを二人は買っていた。それはタイヤを覆う洒落たフェンダーを備えており、程度のいいスペア・タイヤが二個ついていた。ラジオと大きなフォグ・ランプも一個備わっており、後部にはたっぷりとしたラゲッジ・スペースがあって、ボディ・カラーは砂色だった。”
こんな車を手に入れたら、これからのドライブの気分が上がりそうだ。
いちいちこういう描写が秀逸なんである。
アメリカの雰囲気むんむんで、さすがである。
それと、やはり気になる飲食物の描写。
レモンを半分に切ってカップに絞り、皮はそのままカップに残す。野イチゴをつぶしてカップに入れ、氷をカップに入れる。最後にスコッチをついで、“すべてが冷たく、よくミックスされるまで攪拌”する。
ランチ・カウンターへ行き、“スツールに腰かけるとコーヒーにライ麦パンのフライド・ハムエッグ・サンドイッチを注文した。””パンとピクルスと卵とハムに歯が沈むにつれ、卵の黄身がパンに噴き出るのが分かる。それらすべての匂いを彼はかぎ、カップを持ち上げて早朝の香ばしいコーヒーの香りを吸い込んだ。“
”ハンバーガー・サンドイッチと熱いソースをかけたポーク・サンドイッチを彼女は食堂で買い、茶色い紙袋に入れて持ち帰った。別の紙袋にはビールも入っていた。“
“よく冷えた辛口の、樹脂の味がするギリシャの白ワインが置いてあるだけよかった。デザートはチェリー・パイをとった。”
う~読んでいてお腹がすく。
主人公たちはパイナップル・パイなんてのも食べているのだが、私はアメリカでパイナップル・パイというものを食べたことが無い。
台湾でよく売っている、パイナップルのお菓子みたいなやつなんだろうか?
気になる。
主人公には別れた妻と子どもがいる。
スペイン内戦のニュースを新聞で確認しながら、ああ、あの町が陥落したのか…と気をもむ。
自分がスペインにいたら義勇兵として参戦したかったのだが、と思う。
しかし、「子どもと一緒の時間を過ごすことの方が大切だ」と父親らしい面もある。
たくさん働いて(つまりたくさん執筆して)、お金を稼ぐのだ、と気力を新たにする。
小説の最後で、主人公は相方の女性に対して、以前原稿を盗まれた話を披露する。
これはどうやら実話らしい。
ヘミングウェイの元妻が、ローザンヌ滞在中の夫の元に原稿を持参しようとした。
しかし、原稿の入ったスーツケースをリヨン駅で紛失する。
そこにはオリジナル原稿だけでなく、コピーも何もかも入っていた。
彼は到着した元妻から、執筆した原稿の一切合切を盗まれたと聞いて大ショックを受ける。
パリのアパートに慌てて帰り、自宅部屋のドアを開ける。
“…すべてが消えていたんだ。原稿はそこだとおれは確信していた。…ところが、そこには何もなかった。ペーパー・クリップの入っているボール紙の箱も、鉛筆や、消しゴムや、魚の形をした鉛筆削りすらも。左上の隅に返送用の住所がタイプで打ってある封筒や…(中略)とにかく、それら一切が失くなっていた。何もかも、みんなスーツケースに詰め込まれてしまってたんだ。”
これは大ショックだったに違いない。
元妻がスーツケースに詰め込んだのは、短編が11、長編小説が1つ、それにいくつかの詩。
まさか書きためていた原稿が一つ残らずなくなるとは…。
(どうでもいいが、魚の形をした鉛筆削りを愛用しているとはかわいいですね)
今は、ほとんどの小説家さんはパソコンで作品を執筆し、コピーだって別途保存しているだろう。
なので、ここまでの大ダメージを受けることはほぼ無いはず。
(私は、会社で長時間かかって作成した資料が一瞬で画面上から消えてしまったことは何度もあるが…)。
しかし、それほどかわいそうでもなかった、と小説の中の主人公・ロジャー談。
自分の中には、もっとたくさんのストーリーが発酵しつつあったから、だそう。
タフだねえ。
しかし、“それでも相当なショックを受けていた(そりゃそうだ)。”
で、ヘミングウェイ、いやロジャーがどうしたかというと。
原稿が一切なくなっているのを見たときは呼吸も出来なかったが、隣の寝室に入り、ベッドに横たわった。
枕を一つ脚の間に挟み、もう一つの枕を腕に抱いて横になった。
今まで、一度もそんなことをしたことがなかった。
そうせずにはいられなかった。
自分が自信をもって執筆した作品、すべてが失われたことを悟った。
“どの作品もいくどとなく書き直して、自分が願った通りに仕立て上げたものばかりだった。それだけに、もう一度書き直すことは不可能なことは分かっていた。”
うんうん、分かるわかる。
全く同じものを書くのはほとんど不可能だよ。
“枕を友に身じろぎもせずに横たわっていた。おれはすっかり絶望していた。”
もう、言葉もありませんよ、旦那…。
作家さんが膨大な時間をかけて作品を書き、推敲し、また書き直し、納得のいくまで時間をかけて作り上げた作品。
それが全部紛失するとは、お気の毒としか言いようがない。
枕を二つ抱えてベッドに横たわるのも当然だ。
てか、大作家でも枕を抱えてふて寝するわけか。
そして、彼はアパートを出て、管理人と言葉を交わす。
この管理人のおばさま(フランス人)は、ことの顛末を知りたがった。
そして作品をいくつ紛失したか尋ね、ヘミングウェイが熱心に執筆をしていたのをよく見かけた、と話す。
ブランデーをヘミングウェイに飲ませ(気付薬として)、現実に戻す。
どこかへ行って酒を飲んで来なさい。
あなたが不在の間、部屋を掃除しておいてあげるから。
朝食も作ってあげる。
材料の買い物として、とりあえず10フランちょうだい。
夕食も作ってあげたいけど、今晩は友達とどこかへ食べに行った方がいい。
こうして管理人マダムと話すことで、ヘミングウェイは気持ちを現実に引き戻し、気を取り直す。
最初からやり直すしかない、と。
この時の管理人マダムの対応、いいですね。
ロジャーも言っている。
“管理人と彼女の匂い(臭かったらしい)、それに彼女の気働きと決断が、さながらまっすぐ撃ち込まれる釘のように、おれの絶望を寸断した。”
彼は現実的なこと、自分自身の再生に益するようなことをしよう、と心に決める。
そして長編を失ったことについても前向きに考える。
“海上を吹き荒れていた暴風が止むと、はるか沖合をはっきり見晴るかすことが出来るように、自分にはもっと優れた小説が書けるということが、おれには見え始めていた”。
なんというか、「日はまた昇る」に通じるような感じですね。
書きためた全作品を失うことは、自分の家と妻と仕事と貯えとそれらすべてを一遍に失ったようなもので、大変な痛手だったらしい。
でも、前を見るしかない。
ヘミングウェイ兄さん、復活。
「異郷」フランスで作品を紛失したという痛手、しかし管理人に励まされて前に進む決意をする。
そして、本小説では主人公ロジャーは若い女性との恋愛に進み、女性という「異郷」に踏み込んでいく。
ちなみに原題はThe Strange Country.
ところで、全作品の紛失。
絶望は人を一瞬で殺すものだ、とロジャーは言う。
小説ではないが、私も最近何かで読んだ。
絶望すると人間はもう死のことしか考えられなくなる、と。
苦労とかストレスとか人生にはつらいことがいろいろあるが、絶望ほど人間を死に追いやるものはないんだとか。
そんなことを精神科医か誰かが書いていた。
「死に至る病」も絶望のことだしね。
その絶望という異郷から、希望ある世界へ復活した男、ヘミングウェイ。
枕を両脚の間にはさみ、腕にかかえ、ふて寝して絶望の気持ちをやり過ごす。
ショックを受けたアパートを離れ、別の場所(レストラン)へ行く。
おいしい食事を親しい友人と取り、おしゃべりし、うまい酒を飲む。
どうも古今東西、気分が落ち込んだときの対処法は同じらしい。
冷えた白ワインにチェリー・パイも、気分を紛らわしてくれそうだ。
(どうでもいいが、私も最近抱き枕を買おうと思っていた。
こういう場合に使えるんだな!)
小説とはいろいろな読み方が出来るんだと思いますが、この短編では文豪ではなく、一人の人間であるヘミングウェイの側面が見える。
そういう意味で私には面白かったです。