オレンジの花と水

ブログ初心者の日記風よみもの

もうじきたべられるぼく

 

先日、久々に1万歩ほど歩いた。

自分では疲れていないと思ったが、思いのほか疲労していたらしい。

帰宅後、朝まで大爆睡してしまった。

 

やはり運動は毎日少しずつやらないと、ですね。

翌朝、お弁当を作るのも面倒になってしまった。

 

なら、楽に作れるお弁当がいいな。

と思ってスーパーを物色していたら、その日は牛肉切り落としが安かった。

牛丼だとお弁当作りが楽だぞ!と一瞬喜んだが、こんな本を立ち読みしたことを思い出してしまった。

 

「もうじきたべられるぼく」(はせがわゆうじ著、中央公論新社)。

子ども向けの絵本だが、読んだ方はいらっしゃるだろうか。

 

まあ、タイトルから内容は想像つきますよね。

私なんか、あっさり涙腺崩壊。

子どもが読んだら立ち直れないかもしれん。

 

「もうじきたべられるぼく」は、最近話題になっているらしい。。

ネットや雑誌の書評でおススメされていた本の一つだった。

 

主人公は、子牛の「ぼく」。

もうじき自分は人間に食べられる。

(つまり、自分の人生はまもなく終わる)。

最後に一目お母さんに会いたい、と「ぼく」は牧場へ向かう。

 

でも、お母さんは新しい子牛を生んで幸せそう。

悲しい顔をしたぼくに会ったら、お母さんは心配するよね。

ぼくも、みんなにかわいがられて愛されて人生を生きたかった。

 

という感じにストーリーが進む。

絵本なので、すぐに読み終えることが出来ます。

 

言われてみれば、牛や豚、ニワトリって「食べるために育てる」動物ですよね。

もっと単刀直入に言うと、「殺すために育てる」わけだ。

 

だれも牛や豚をかわいがろう、とは思わない。

動物園のゾウやキリン、家庭の犬猫はかわいがる対象なんだが。

幼稚園の頃から、私もそれは気になっていた。

しかし、肉を食べるのは好きだったのだ。

 

そんな私のジレンマにド直球だった、「もうじきたべられるぼく」。

フードロスとか命をいただくこととか、改めて子どもに教えることが出来る作品である。

 

本にあまり関係ないが、こんなことを思い出した。

 

ある時、私の部署に着任したAさん。

噂によれば、Aさんは肉を食べないらしかった。

 

それをどこからか聞き込んできた私の同僚B。

なぜかウキウキと楽しそうに私に言った。

 

「ねえねえ知ってる?Aさんってビーガンなんだって!!」

 

ん?

ビーガン?

 

ベジタリアンじゃないんですか?」

 

そう私が訪ねると、B氏は笑顔で答えた。

 

「え?ベジタリアン

ビーガンとベジタリアンって同じじゃないの?」

 

私「…。」

 

なるほど。

菜食主義者ではない人にとっては、ベジタリアンもビーガンも同じらしい。

 

その後、社内で「Aさんって男性なのにビーガン?」といったトーンの噂話をよく聞いた。

「男性なのに」とは、どういうことだろう?

 

いやいや、男性が菜食主義でもいいじゃないの?

男性はがつがつ肉を食らうもの。女性は菜食主義。

なんて誰かが決めたわけでもない。

 

さらに後で聞いた話。

他の同僚がAさんを飲みに誘ったが、断られたという。

理由は、「飲み屋に自分が食べられるものが無いから。」

それもちょっと驚いた。

 

いや、だって居酒屋だって野菜サラダとか?枝豆とか?冷ややっことか?冷やしトマトとか?

Aさんが食べられそうな野菜のおかずはありそうだが…(←私は菜食主義者じゃないので発想が貧困ですが)。

 

私もAさんと話してみたいとは思った。

でも、一緒に出掛けても「食べられるものが無い」のか…。

 

その断りフレーズが頭に渦巻き、どうにも誘う勇気が持てなかった。

そして、一度もAさんと食事に行くことが無いまま、私が配置換えとなった。

ちょっと残念だった。

 

ベジタリアンということは、もちろん何らかのポリシーがあってそうしているんだろう。

野菜を食べる方が体調がいいとか、倫理的理由で肉食をやめたとか。

そのあたりも聞いてみたかった。

(てか、こういうことを周囲が聞くこと自体、余計なお世話なのかも?)。

 

今のところ、私は魚も肉も食べる。

しかし、肉を食べるときの罪悪感は常にある。

理由は、「もうじきたべられるぼく」の読後感に近い。

 

牛や豚はかわいそうだが、魚なら殺してもいいのか?

野菜なら引っこ抜いたり切り刻んだりしても許されるのか?

すいません、私を責めないでください…私も悩んでいるんですよ。

食べ物の問題は奥が深い。

 

で、最初の話に戻る。

スーパーで牛肉切り落としを発見したが、どうにもこうにも。

「もうじきたべられるぼく」を思い出し、牛肉を手に取ったがやめた。

 

というわけで、その日は牛肉をあきらめて帰宅。

夕食準備も、「肉を食べるか否か」で迷った。

仕方なく、鍋にだし汁と刻んだクズ野菜(白菜とえのき)を入れ、冷やご飯を入れておじや風にして卵でとじた。

(日本の卵は無精卵なので生き物が生まれてくるわけではない、許してもらおう)。

まあ、本を読んだ直後の過敏反応といえなくもない?

 

「もうじきたべられるぼく」の作者が伝えたかったこと。

それは、食べ物を無駄にしないこと、命を粗末にしないこと。

と私は理解した。

アンチ牛肉消費とか菜食主義のススメとか、そういう方向ではない。

 

ところで、Aさんの後日談。

別の同僚C氏が「Aさんと飲みに行った」と話していたのでびっくりした。

 

「Aさんはベジタリアンだから、飲み屋で食べられるものがないんでしょ?」

 

と聞いたら、C氏はきょとんとした顔をした。

Aさんってベジタリアンでしょ?と再度尋ねたら、ようやくC氏はそれを思い出したような表情をした。

どうやらC氏は、Aさんが何を食べたか記憶にないらしかった。

 

一体いつからAさんは同僚と飲みに行くようになったのだろう?

と私が不思議に思っていると、C氏があっけらかんと言った。

 

「でもねえ、Aさん、お酒は飲んでたよ。」

 

…。

まあ、飲み屋へ行って何も飲まない、ってわけにもいかないでしょう。

私が知りたいのは、飲み屋でAさんが何を食べたか、ってことなんだが。

 

もしかするとAさん。

「飲み屋で食べるものが無い」と飲み会のお誘いを断っていると、誰とも外出できないじゃん!

と気づいたのかも。

 

せっかく素敵なポリシーがあっても、諸事情で周囲に合わせざるを得ない。

自分の信条を多少曲げなくてはいけなくなるわけだな。

インドみたいに、菜食主義がデフォルトになっていれば楽なんでしょうけど。

 

とはいえ、日本でもだんだん野菜中心のレストランが増えてきたようだ。

ベジタリアンの人が安心して飲める居酒屋」なんてのもあるんだろうなあ。

 

たぶん私に必要だったのは、「飲み屋でAさんが食べられるものは無いよね」と心配することではない。

「断られてもともと」と誘ってみる勇気だったのかもですね。

職場にいろいろな人がいると、様々なことを学ぶわけだ。