皆さま、新年あけましておめでとうございます。
2023年になりました。
年末年始。
自宅でゆっくり過ごされた方も多かったでしょう。
休みは自宅でゆっくり、が基本ですよね。
家でお笑いを見る、という年末年始の過ごし方も頭をよぎった。
でも、私は旅行することにした。
近場の旅行はさておき、遠距離の旅行は約2年ぶり。
ワクチンも接種したし、久しぶりに遠出をしたいなあ、と思ったのだ。
しかし、思いついたのが11月。
(スタート遅すぎるんだよ…)。
行きたいところはたくさんあるのだが、11月のスタートダッシュはさすがに遅すぎた。
どこもかしこも予約でいっぱい。
たぶん、私みたいに「久々に旅行しよう」と思った人も多かったのだろう。
旅行って、思いついたら即実行しないとダメなのかもですね。
休みが取れる期間は限られているんだから、すぐ行動しないと。
ウダウダ悩んでいると、あっという間に新幹線やら宿やら取れなくなってしまうのだ。
出雲大社にはお礼参りに行かねば、と思っていた。
(注:現代では、「お礼参り」って任侠映画の影響でネガティブなイメージ?
でも本来は試験合格とか病気治癒とかの後に、神様にお礼を伝えるためにお参りすることだ)。
なぜ出雲大社?である。
何年か前に出雲大社に行った時、渋くていい神社だなあ~再訪したいな、と思っていた。
なので、よし今年こそ出雲大社に行くか!と思いついたのだ。
でも今からじゃ無理かなあ?と思っていたら…。
なんと、滑り込みセーフで出雲旅行が予約できた。
これも何かのご縁。
行くぞ!
というわけで。
旅行が予約できたので、イヤな仕事も?頑張れた。(←現金だな)
みんな私みたいにニンジンを鼻先にぶら下げて働いているはずですよね。
で、久々の出雲だ。
想像はしていたが、出雲大社は思った以上に混んでいた。
車は道路で渋滞しているわ、初もうで客でごった返しているわ。
うわ~なんじゃこりゃ?
こんなに混んでいるのが普通なの?
ってくらい混んでいた。
元旦なんだから、そりゃ誰しも初詣に来るよね…。
そりゃそうだ。
元旦だからこそ、私もわざわざここにいるわけである。
が。
そこには私が以前感動した、古代日本の面影を漂わせる出雲大社はなかった。
泣き叫ぶ赤ん坊、団子になって歩く家族連れ、何やら食べながら大声でしゃべって歩く若者集団、神域なのに犬を離すアホ…。(←すいません言葉が悪くて)
献血を呼びかける人たち、中国語が飛び交う一群、ずらりと参道に並ぶ露店、なぜか流れに逆らって歩くカップル、大渋滞の車列をさばく警備のおじさんたち、声をからしてツアー客を先導する添乗員さんたち。
そこに漂うイカ焼きの醤油の焦げた匂い、アイスクリームに大行列をなす観光客、走り回るガキども…。
誰も彼もが好き勝手にやっていて、カオス絶賛展開中。
これが、私が長らく恋焦がれた出雲大社かいな。
インドのタージマハールの混雑ぶりを思い出したぞ。
タージマハールの大理石の床に勝手に座り込む一家、さらにそこで弁当を広げる家族。
食うわしゃべるわ騒ぐわ。
いったいどこからわいて出てきたのかと思うくらいの数の老若男女。
「上京して東京(デリー)見物中」らしき、田舎っぽい服装のおじさんおばさんたち。
インド人家族連れもすごかったが、日本人も負けてはいないのだ。
まあ、日本の神様は寛容なので、我々の悪行を優しく見守ってくれていると信じたい。
稲佐の浜も、以前訪問したときは工事中だった。
しかし、浜がすっかりきれいになってベンチが置かれ、駐車場が整備され。
「稲佐の浜」なんて看板まで出来ておる。
こんな感じだったっけ、出雲って???
ものすごい勢いで観光地化されていて、面食らうばかりだ。
ほうほうのていで出雲大社を後にする。
なんか、神々しかった出雲大社がぐっと庶民のレベルに降りてきた印象はぬぐえない。
どうなっちゃったんだ、出雲…。
ある意味、以前より出雲大社と仲良くなれたような気もするが。
出雲大社から少し足を延ばすと、日御碕神社という小さな神社がある。
今回は初めてここへ行ってみた。
出雲大社からさらに西。
というか、岬の突端にある小さな神社だ。
海に沿った断崖沿いに、くねくねと細い道が続く。
左に海を見ながら車を進めていくと、その神社はある。
か~なり辺鄙な場所にある。
読者の皆さんの中に、行ったことのある方はいらっしゃるだろうか。
私が訪問したときは夕方、日の沈むころ。
細い道をずっとたどっていくと、行き止まりにその小さな神社が現れるのだ。
ここに祀られている神様は、太陽神(っていうとエジプトみたいだな…)天照大神。
そして弟のスサノオノミコトである。
境内には2つのお社があり、1つは姉の天照大神、もう一つは弟のスサノオが祀られている。
由来など詳しいことが知りたい方は、神社のHPなどの記載をご覧ください。
伝説によれば、三重県の伊勢神宮は「日本の昼を治める」とされている。
そして、ここ日御碕神社の天照大神のお仕事は「日本の夜を治める」こと。
ゆえにここの神社では、天照大神のお社は「日沈宮」(ひしずむのみや)と呼ばれている。
日が沈む、ねえ。
日本の西の突端にあるから、夕方にピッタリの神社ではある。
しかし謎が一つある。
天照大神には「月読女神」という夜をつかさどる妹がいたはず?
お姉ちゃんが妹の仕事もやるんでしょうかね?
よく分かりませぬ…。
まあ、夜と月の役割については、そのうち詳しく調べてみようと思う。
この社殿は朱塗りでとても美しい。
鳥居をくぐって正面が、日沈宮である。
右側に弟の「神の宮」がある(シンプルな名前ですねえ)。



松の木の緑と朱塗りの社殿が良く映えて、それだけでも美しい。
が、夕暮れになると黄昏の光が社殿に反射して、そりゃまたゴージャスなんだそうである。
(なんだそうである、と書いたのは、あいにく私が訪問したときは曇ってきちゃったのである。
夕暮れの社殿が見られず悔しい)。
でも、曇り空でも十分堪能できましたよ。
神社の裏手が海になっているので、潮騒が遠くに聞こえる。
(神社を少し離れると、神社の向こう側に海が見えます)
ウミネコの生息地が近くにあるので、空にウミネコが舞っている。
神社の前の路地には、吊るされたイカが風に揺れている。
なんか、どこかで見たような懐かしい景色。
湘南とか鵠沼とか、あんな雰囲気もせんではない(ちょっと違う?)。
散策した後に社務所で砂のお守りを買う。
名残惜しいが、海の音が聞こえる美しい神社を後にする。
私の中では「来てよかった神社ベスト10」に入るぞ。
くねくねと曲がる海沿いの道を、波音を聞きながら戻っていく。
(余談だが、イタリア沿岸のティレニア海も車を走らせるとこんな感じらしいが…)
右手下に、海の波が打ち寄せる岩場が続く。
突然雲が切れ、ぽっかりと顔を出す夕日。
(今になって出てくるのかい!神社で見たかったぞ!)
名前の通り、日没時が美しい「日沈宮」ですね。
よかよか。
日御碕神社からいただいたリーフレットを読む。
すると、「古来、夕日を〇け(すいません、漢字が見つかりませんでした)鎮める霊域として…崇敬せられた」
とある。
てことは、「夕日を鎮める」という役割もあったわけだ。
万物を照らし、生き物をはぐくむ太陽。
それが沈んで夜になる。
古代日本人は「日が沈む」ことを、何か特別なことのように感じたんでしょうね。
新年といえば、初日の出が昇る、というイメージ。
特に国旗の真ん中に太陽を掲げる日本にとって、太陽や日の出は重要ですよね。
だからこそ、「日が沈む」ことも神社として崇敬されるわけなんでしょうか。
いろんなことを考えながら帰路に就いた。
騒がしかったドタバタはすっかり洗い流され、すがすがしい気持ちになった。
日御碕神社の美しさや海からの風で、すっかり清らかな気持ちになれた。
昨夜帰宅し、今日から現実世界へ戻ってきた感じ。
こうやって自宅に戻りブログ記事を書いていると、松の枝を渡る海風を今も感じるような気がします。
ちょっと行きづらい場所にありますが、出雲までお出かけの節はぜひ、お立ち寄りくださいませ。
しかし、ここも大々的には観光地化されてほしくないなあ~と思っている。